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戦争への道の過剰な賛美~映画「風立ちぬ」 [社会時評]

戦争への道の過剰な賛美~映画「風立ちぬ」

 

 宮崎駿監督の「風立ちぬ」を見た。公式サイトの企画書にある通り、とても「美しい」映画である。昭和初期の、緑豊かな山野の美しさ。ゆったりと流れる日常の「とき」の、日差しを映す川面のような美しさ。薄幸の少女と、飛行機の設計を志す若者の出会い。なにもかもが美しい。

 しかし、この映画を見おわって、自分の感性の中に何も残っていないことに気づかされる。ただ「ああ、美しかった」と刹那の気分に浸ればよかったのか。そうだとすれば、その割に、この映画にひそめられた毒は強烈すぎはしないか。「美しさ」という甘い蜜でくるまれた「毒」を、映画を見たものが飲まされるとしたら、この映画の「美しさ」は犯罪的、ということにならないか。

 主人公は「ゼロ戦」を設計した堀越二郎。堀辰雄の小説「風立ちぬ」「菜穂子」から造形された少女と二人で物語を紡ぐ。フィクションとノンフィクションがないまぜになって、ストーリーは展開する。

 堀越は技術者としての志から、「世界でも傑出した」と呼ばれるゼロ戦をつくりだす。その「名機」の登場が紀元2600年(西暦1940年)であったことから、零式艦上戦闘機=ゼロ戦と呼ばれる。しかし、その当時ぬきんでていた航続距離と運動性能は、極端に薄い防弾壁=つまり、操縦者の人命を軽視した構造=がもたらしたものでもあった。

 映画では、ただ「美しい」飛行機を設計することに情熱を燃やした若者として堀越が描かれている。しかし、考えてみれば、あらゆる兵器は美しい。戦闘機、戦闘艦船、戦車を思い浮かべてみればいい。銃やナイフ、日本刀もそうだ。「戦闘」という一つの目的のためだけにつくられ、余計な機能はすべて削ぎ落とされた「兵器」は完成度が高ければ高いほど美しい。映画の中で堀越が追求した「美」とは、ロマン的な世界の話などではなく、戦争へと向かう潮流の中でこそ捉えられるべきであろう。ゼロ戦は美の世界の産物ではなく、あくまで当時の時代的要請によって生まれたのである。

 物語は、関東大震災直後の二郎と菜穂子の出会いから始まる。再びの出会いは、避暑のため訪れた軽井沢でのことである。大正末期の震災から戦争に至る時代は、一般庶民にとっては不況と恐慌と社会不安にさいなまれた時代であった。坂道を転がるように、日本は暗い時代へと向かっていった。こうした背景をすべて削ぎ落として、庶民感覚とは程遠い恋愛物語の中でどんな共感がありうるのだろうか。

 この映画を観終わって、1階下の本屋に寄ってみた。軍事モノや歴史モノを扱う雑誌の多くが「ゼロ戦」特集を組んでいた。表紙には「傑作戦闘機ゼロ戦」などと大見出しがあった。商機到来、というわけである。世間の受け止め方は、所詮こんなものである。「アニメでしかできない美しい物語を作ってみました。戦争との関連?それは見た人たちに丸投げ」ではすまない何かがある。

 映画の中で、二郎の同僚が「自分ひとりが日本の飛行機を背負っているような顔をして…」と漏らす場面がある(もちろん、好意的にだ)。これを見て、ある言葉を思い出した。かつて、このブログでも取り上げたことがあるので、そのまま引用する。

 ◇

 高木仁三郎は著書「原発事故はなぜ繰り返すのか」で「『我が国』という発想」ということを書いている。つづめていうと本来は「公」と「私」があって激しくぶつかり合うものなのに(高木氏はここで私小説作家を例に挙げている)、技術者の意識では「公」だけがあってそれをそのまま「我が国は」と、1人で背負っているかのような言い方をする、と指摘している。そこから議論なし、批判なし、検証なしといった状況が生まれるという。「原子力は社会に貢献するのか。はたしてそのメリットとデメリットは」といった議論より先に「原発建設を進めるには」を言う技術者意識を批判しているのである。

 ◇

 「原発」を「ゼロ戦」に置き換えてみればよくわかる。この映画は、「公」はあっても「私」がない。だから本当の議論も批判も検証もない。だれも時代を超えて生きることはできないのだから、堀越の戦争責任を問え、などと言うつもりはない。しかし、「いま」という時代から、堀越の仕事はどうとらえられるべきかは、きちんと視点として提示されなければならないのではないか。それをしないのであれば、「二郎」は堀越でなくてよかったのではないか。

 


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コメント 4

たんたんたぬき

ジブリアニメに疎く、本作も未見ですので大きなことは申せませんが、宮崎監督が航空機のニアであり、零戦をモチーフにした映画を撮りたかったという願望は解ります。しかし、彼が同時に戦反戦主義者であるという矛盾と、どう両立させるかという難題は、簡単に乗り越えられないのではと思っていました。asaさんのレビュー拝見して少し見えてくるものがありました。
by たんたんたぬき (2013-08-10 13:49) 

asa

≫たんたんたぬきさま
ゼロ戦を設計した堀越二郎と、アニメ「設計者」としての宮崎駿氏は、技術者の「志」という点で共鳴するものがあるのではないか、と私は思っています。しかし、それだけに危ういものを、この作品ははらんでいるように思いました。
by asa (2013-08-10 14:10) 

ES-390

わたしも見終わってとても複雑な気持ちになりました。
びっくりするようなところを含んだえいがです。
 けれど「菜穂子」さんという一人の人間の命を大事に大事に表現しています(堀辰夫さんの原作もよみました)。戦争や武器に賛成しているわけないのです。
 私はただかるく戦争反対といってるのではなく、本気でむなしさを語っているのかなと思いました。
 この映画や堀越さんの矛盾をしることがうわべでない戦争の過ちをしるのかなというか・・・ いっぱい勉強しなければと思いました
 ひとりの人間の命をあれだけ大事にしてるんですから 戦争賛美なんかしてるはずがない。ただ最後の表現が少しですよね それにも理由があるんだろうなぁと思いました。
by ES-390 (2013-08-18 14:18) 

asa

≫ES-390さん
コメントありがとうございました。
私も昔、堀辰雄を読みました。たしか、病苦の女性に男が寄り添う話ですよね。ところが、この映画では病と闘う女性が「二郎」につくし、最後はサナトリウムに行ってしまうのです。私は必ずしも、二郎がこの女性を大切にした、とは思えませんでした。結核の女性の枕元でたばこを吸うシーンも、なんと無神経な、と思いました。だから戦場で、自分の設計した戦闘機が多くの血を流させることになんの葛藤もないのではないか、と思った次第です。でも、別の見方もあるかもしれませんね。
by asa (2013-08-18 19:19) 

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