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「慰安婦」発言に思う [社会時評]

「慰安婦」発言に思う


 橋下徹・大阪市長を「『弱い犬ほどよく吠える』の典型」と評したのは評論家の佐高信さんだが、その橋下さんがまた吠えた。

日本軍「慰安婦」をめぐる、5月13日以来の発言だ。要点は①戦時下で「慰安婦」制度は必要だった。しかし、今は容認できない②欧米諸国も同じことをやっていたが、日本だけが非難されるのは「性奴隷」にしていたと思われているから。これは誤解だ③沖縄の米軍司令官に「もっと風俗業を活用して」と言った。そうしないと海兵隊の性的エネルギーをコントロールできない―。

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「慰安婦」制度については、戦後ほとんど公的な調査が行われていない。日本を含むアジアで、この問題についての見解が分かれているのは、そもそもこのあたりに原因がある。

例外的に行われたのが、1993年の河野官房長官談話の前後に行われた調査だった。このとき、日本軍が「慰安所」設置・管理=施設提供=と「慰安婦」の移送=軍用車、軍用船の使用=をしていたことが、当時の軍の書類などから明らかになっており、河野談話もこの点に言及、歴史的事実として認めている。

13日の会見で言及したころの橋下さんは「慰安婦」問題についてずいぶん荒っぽい発言をしていたが、5月27日の外国特派員協会の会見では少し勉強したらしく、これまでよりかなり穏当な発言に終始した。すなわち、①河野発言は否定しない。したがって「慰安婦」への軍による施設提供と移送手段の提供は認める②しかし、河野談話は十分ではない。不足部分を埋める必要がある―。会見では、何を聞かれてもこの二つの一点張りで、おそらくこれが彼の会見乗りきり戦術だったのだろう。

②で橋下氏がいいたかったことは、河野談話の「甘言、弾圧によって本人の意思に反して集められた事例が数多くあり」、それは「軍の要請を受けた業者が当たっていた」という部分についてで、端的に言えば「軍による強制連行があったかなかったかはっきりしろ」ということだ。

しかし、なぜこれがそれほど問題になるのか。軍が計画を立てて民間業者に指示を出し、業者は甘い言葉やときにだまして「慰安所」へ女性を連れていったことは、これまで残されたあまり多くない関連文書でも明らかになっている。今の言葉で言えば、これは「国策民営」で、例えば女性・子どもを誘拐・拉致する場合、強制的に連れていったか甘い言葉で誘い連れていったかで罪の度合いは変わるだろうか。

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 橋下さんは13日の発言以来釈明を繰り返している。その中に「戦時中に慰安婦制度が必要だったと言っただけで、今許しているわけではない」というのがある。これについて元外務官僚の作家佐藤優さんがこう言っている。

 「国際社会にとっては単なる歴史認識では済まない論外な発言だ。かつての米国の奴隷制度は当時の基準で正しかったと言うのと同じ」

 過去のある時点の「事実」(この言葉も、本来は定義が必要だが)をそこだけ切り取って提示し、当時の価値観で語る。このやり方は正当性を持ちうるのか。

 E・H・カー著「歴史とは何か」という本は、高校生でも読んでいる。例えば、中高生と対話した東京大教授・加藤陽子さんの「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」にも出てくる。この「歴史とは何か」から手掛かりを探してみよう。

 「輿論を動かす最も効果的な方法は、都合のよい事実を選択し配列することにあるのです」▽(哲学者クローチェを引用して)「すべての歴史は『現代史』である。歴史というのは現在の目を通して、現在の問題に照らして過去を見るところに成り立つ▽歴史とは現在と過去との尽きることを知らぬ対話。

 橋下発言は、都合のよい「事実」の選択であっても歴史認識ではないと分かる。だから韓国政府は橋下さんに対して「歴史認識の欠如」と批判するのだろう。

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 戦争責任とどう向き合うか。この問題を考える時、加藤周一さんの「言葉と戦車を見すえて」が参考になる。加藤さんは、ドイツでは「過去の清算」ではなく「過去の克服」という言葉が使われるという。その意は、戦争責任を認め、謝罪し、補償し(対国家・対個人被害者)、将来に向かって道を開こうとすること。今日の日本へのアンチテーゼといってもいい。

 日本軍「慰安婦」問題解決全国行動共同代表の梁澄子さんがこんなことを言っている。

 ――「慰安婦」とは日本軍が勝手に作った名前だ。だから私たちはカッコ付きで呼んでいる。女性から見たら性奴隷制だが、軍から見たら兵士に慰安を与える。名称そのものに軍の犯罪性が現れている。

 私たちは「慰安」という言葉にひそむ被害・加害の恨の河さえ渡ってはいないのだ。

 被害の立場に身を置く想像力がなければ、日本とアジアの本当の和解はない。いや、戦後日本と切り離され、今また橋下発言によって人権を蹂躙された沖縄との和解さえない。戦後の沖縄の歴史を少しでも考えれば、米兵犯罪の底流にあるのは「性的な暴発」などではなく、アジアへの人種差別とそれを法的に裏付ける日米地位協定の問題だと分かるはずだ。日本人はアメリカ人より一段下の民族であり、暴力をふるっても刑事訴訟を受ける心配がない―。どうです、かつて朝鮮半島や中国大陸で「日本兵」が罪を犯したときの心情とそっくりではありませんか。

いま、アウシュビッツはヨーロッパを考えるときの「入場チケット」だ―。姜尚中さんがある対談で述べた言葉を思い出す。では、いま私たちが東アジアで共有すべきもの=東アジアの入場チケット=とは、なんでしょうか。


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