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凡庸な駄作~映画「リンカーン」と「アンナ・カレーニナ」 [映画時評]

凡庸な駄作~映画「リンカーン」と「アンナ・カレーニナ」


 人名がタイトルの映画を2作続けてみた。不覚にも、どちらも鑑賞中に睡魔に襲われて、作品の一部の記憶がない。そんな状態でいうのもなんだが、結論を言えば退屈な駄作ではないか。

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 「アンナカレーニナ」は、アカデミー賞(どれほどのものとも思わないが)の衣装部門で賞を取ったらしい。しかし受賞はそれだけ。そのことが、この作品の評価を表している。人物の描写がいかにも浅薄なのだ。そこで目立つのは衣装ばかり、ということになる。監督があのジョー・ライトだなんて信じられない。

 アンナカレーニナ.jpg


 政府高官の妻アンナ・カレーニナ(キーラ・ナイトレイ)は青年将校との恋に落ちる。悩んだ末に自分に忠実に生きようと決める。しかし、社交界はそんな不倫を許さない―。周囲の封建的な空気と、自我に目覚める女性との葛藤―が原作に秘められたテーマであろうが、そうした内面の動きがまるで伝わらない。

 一方で、恋に破れながらも再起するリョービン(ドーナル・グリーソン)の生きざまが描かれる。彼は、社交界を追われるアンナとは違って、農村社会に身をゆだね、受け入れられる。額に汗する道を選ぶのである。しかし、トルストイが投影されたと思えるこの人物像を出すことで(原作にはもともとなかった)、一体何が言いたかったのであろうか。

 描かれるべきはアンナ・カレーニナの自我をめぐる1%の「正当性」であるはずなのに、そこで「まっとうに働くことの価値」を持ちだしてしまえば何もかもぶち壊しだ。

      ◆

 おそらく、米国歴代の大統領の中でも、リンカーンはいまだに人気ではナンバーワンではないか。そんな大統領を映画でとりあげるのは、ある意味では「冒険」である。なぜなら、リンカーンを「悪者」にできないからだ。どんな人間も「天使」と「悪魔」の部分を併せ持ち、強者であるとともに弱者であろうが、そうした側面を呵責なく描くことについては、あらかじめタガがはめられている。

 リンカーン.jpg


 この映画「リンカーン」もまた、そうしたことから自由ではなかった。リンカーンは正義と信念の人であり、家庭を愛す人であり、貧困に負けず努力の人―。映画で描かれたのはそういうことである。歴史上、出来上がっている「リンカーン」像に挑戦する、いかなる企ても見ることができない。あらかじめ意図されてはいないだろうが、ある意味でこれは「国策」映画でもある。

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 南こうせつと「あの素晴らしい愛をもう一度」をうたった夜、安倍晋三首相はコンサート前に映画「リンカーン」を観ていたく感激したと、あるニュースで報じられていた。

 「いま」という時代と結びつけていうなら、「リンカーン」で描かれたのは奴隷解放をめぐる憲法改正の、議会内での攻防である。トミー・リー・ジョーンズも、奴隷解放に賛成する共和党議員として登場する(彼の役のつくりようは観るべき価値がある)。「改憲」が映画の重要な要素である点で首相も関心を持ったのだろうが、当時も今も米国議会での改憲のハードルは「3分の2以上の賛成」である。ちなみに、1865131日にあった米国憲法修正第13条をめぐる下院での採決は賛成119、反対56、棄権・欠席8で3分の2のハードルを2上回った(映画でもそう描かれている)。当然のことながら、「改憲のためにハードルを下げる」などという議論は登場しない。首相も、そこを飛び越してこの映画の論評をしてはならないだろう。


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