額縁は真似てみたけれど~映画「東京家族」 [映画時評]
額縁は真似てみたけれど~映画「東京家族」
いまさら言うこともないが「東京家族」は「東京物語」のリメークである。なぜこのことを冒頭に言うかといえば、やっぱりこの試みは無謀だったと思うからだ。
正直言えば、もう少し山田洋次風アレンジがあるのかと思っていた。しかし、違っていた。筋立て、生硬なセリフ回し、何よりカメラワークは小津調のコピーである。日本家屋を正面からローアングルで撮る。対面する二人の会話はカメラを真ん中に置いた位置で交互にアップで撮影する。二人を斜めに並べて相似形の構図で撮る。筋立てで言えば「肝心なところは撮らない」という小津の手法を投影させる。例えば、平山周吉ととみ子(「東京物語」では「とみ」)夫婦が新幹線で上京するシーンはない(品川駅でまごつくシーンはある)。上京した二人と在京の息子たちが「すき焼き」を囲むシーンは、前後の会話で分かるものの、それ自体はない。そしてドラマとしてもっとも肝心と思われるとみ子の臨終シーンは、家族間の会話でのみ分かる仕掛けになっている。
こうした手法は、たしかに「小津だな」とにやりとさせられる。しかし、作品の額縁の意匠は小津を彷彿とさせても、味付けはまるで違っている。これは何なのだろう。あらためて言えば「東京物語」は家族の崩壊を凝視した作品である。それを軸に普通の日常的風景を重ねる中で戦争の傷、近代と反近代、生の無常と諦観が盛り込まれた骨太の作品である。人物を描く際の通奏低音は「虚無」であろう。
しかし「東京家族」は、そのいずれにもほど遠い。そうした味付けがなくて悪いわけではないが、ここまで「小津」の額縁を使えば、小津の「諦観」に比する山田洋次の「なにか」がなければ始まらない気もする。
周吉を演じる橋爪功は笠智衆に比べて「演技」をしすぎている。とみ子の吉行和子も、達者すぎる。かつて山村聡が演じた長男役の西村正彦がこれほどダイコンとは思わなかった。杉村春子に代わる中島朋子は、痛々しくて比べる気になれない(「東京物語」の杉村春子は、笠智衆とともに抜きんでている)。
「東京物語」で「戦争」を引きずっていたのは戦死した二男・昌二の妻だった紀子(原節子)であった。さすがに、時代を考えればこの設定は変えざるを得ず「東京家族」では昌次(妻夫木聡、山田洋次の「次」に変わっている)を生き返らせ、紀子(蒼井優)とのつながりの後景に「東日本大震災」を置いた。出演者のほとんどが「小津」のマジックにしびれて演技ができない中で、アレンジされた「昌次」と「紀子」の関係だけが実在感を持ち得ているのは、なんとも皮肉である。ただ、蒼井優演じる「紀子」に周吉が「あなたはいい人だ」と声をかける、そして紀子が「私はそんな人間じゃないんです」というシーンはいずれも無理がある。「東京物語」でも同様のシーンがあるのだが、これはあくまで「戦争」という重い事実が背景にあってこそ成り立つという気がする。
観終わってみると、山田洋次は山田洋次であって小津安二郎ではないよな、と思った作品であった。
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