心に深く錘を下ろす絵を描く [濫読日記]
心に深く錘を下ろす絵を描く
「奇蹟の画家」(後藤正治著)
「奇蹟の画家」は講談社文庫。初版第1刷は11月15日。単行本は2009年12月刊行。後藤正治は1946年京都市生まれ。「遠いリング」で講談社ノンフィクション賞。「リターンマッチ」で大宅壮一ノンフィクション賞。 |
目を閉じてうつむき加減の女性が描かれている。向こうから見られることはない。しかし、「わたし」は女性を見ている。見ているのは「わたし」だが、しかし、その女性は何かを発信している。いや「発信」などというものではないかもしれない。「見られる」ことを受容する何かを、「わたし」に伝えようとしている。「わたし」はそれを感じながら、「わたし」という存在が「受け入れられている」ことを確信する。
この社会に「受け入れられない」という不安感を私たちは常に持ち続けている。たとえば「死」を前にした時、それは究極の「拒絶」と映るにちがいない。「死」を目前にするという体験を私はまだ持ち得ていないから、それを推測するしかないのだが。
全てを受け入れて、全てを許容する。そんな絵である。そしてそんな絵を描くためには、描く人自身が全てを受け入れ、全てを許容する存在でなければならない。石井一男という人は、きっとそんな人であったにちがいない。49歳まで、ひっそりとだれにも知られずに生きて来た。神戸市内の棟割長屋の2階で、一度も定職に就くことなくアルバイトで生活を支えて来た。そして、だれのためにでもなく、おそらくは自分のためにでもなく、絵を描き続けて来た。
絵を描くために生きて来た、などといえば嘘になるに違いない。ましてや、生きるために描いてきた、といえば、もっと嘘になるだろう。ある芸術家の言葉。
「一見、寂しい境遇にある人と見えるかもしれないけれど、そうではないと私は思う。(略)石井さんにはそういう生活が一番居心地がいいのだと思う。石井さんにとってはそれが自然なのであって、だから変わらないし、揺れないし、ぶれない」
では、この画家自身は、絵を描く行為をどうとらえているのだろうか。
「(略)ぼんやりと、
どこからか、呼んでくれるものを、
待っている」
筆者である後藤正治はこう書く。
石井の絵には押し付けがましいものはないし、突き刺さってくるような作用もない。覚えるのは、日頃、あまり知覚することの少ない、何か良きもの――に静かに触れてくる感触である。
絵は「グワッシュ」という手法で描かれている。砂交じりの、ざらりとした手触りの、それでいて優しさが漂う。どの絵も、どの絵も、心に深く錘(すい)を下ろしてくる【注】。
だから、人々が悲しみに沈む時はあたたかく、喜びにあふれるときは共感の表情で迎えてくれるのである。石井一男という画家の人生。思えばこんな幸せな人生はない。そして、こんな絵に出会った人たちもまた。
【注】著書で引用された毎日新聞「余禄」2005年5月2日付での表現。
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