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現代の「堕落論」、しかし三つの「がっかり」 [映画時評]

現代の「堕落論」、しかし三つの「がっかり」

~映画「恋の罪」


 「東電OL殺人事件」で著者の佐野眞一は冒頭、坂口安吾の堕落論を取り上げている。「人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外に人間を救う便利な近道はない」―。そして佐野は「彼女(筆者注=殺人事件被害者)は、小賢しさと怯懦と偽善にあふれ、堕落すらできない現代の世にあって、堕落することのすごみをわれわれに見せつけた」と書く。園子温監督が映画「恋の罪」を撮った動機はここにあると思っていいだろう。ついでにいえば、「恋」などどこにもありはしないこの映画に「恋の罪」というタイトルをつけたのはマルキ・ド・サドの同名小説によると思われるが、その関連性は今一つ明確でない。

 実際の事件をモデルにしたことも含めて、かなりの話題性を持った作品である。従って、最近では珍しい光景だが、映画館(定員150人ぐらいだろうか)はほぼ満席だった。若い女性が多いのが目立った。

 しかし、事前の話題性のわりに作品自体はどうだったか、というと「がっかり」が随分あった。とりあえず三つほどあげておく。

 恋の罪2.jpg


 映画には3人の女性が登場する。殺人課の刑事・吉田和子(水野美紀)、作家の従順で貞淑な妻いずみ(神楽坂恵)、日本文学を専攻する大学の助教授・美津子(富樫真)。彼女たちがそれぞれに「偽善」と「堕落」を演じる。和子は抜け出せぬ不倫と安穏な日々の両立を目指す。いずみは日常に心の空洞を覚え、ふとしたことで売春にはまる。美津子は、昼の顔とは全く違う円山町の娼婦に変身する。この3人の「競演」がみどころ―ということだが、水野は初めと終わりに少し存在感を示すだけで、中盤の不倫相手との絡みはほとんど現実感がない。いわば作品の「表紙」的存在。ファザコン、拒食症、エリート…といったパーツによって東電OL殺人事件被害者を想起させる富樫は3人の中ではベストの演技だが(肉体を貨幣による交換価値に置き換えることで社会性を獲得する、というプロセスはよくわかる)、なぜか作品を通してみると神楽坂の後ろに引いている。つまり3人の中でメーンは神楽坂なのだが、もともとB級AV女優の立ち居振る舞いで、とても貞淑な妻に見えない。そのために後半の「堕ちていく」ときの落差がほとんど伝わってこない。

 そう見ると、富樫以外は明らかにミスキャストである。これが第一の「がっかり」。

 二つ目は、ストーリーをめぐる問題。殺人事件の結末をどうつけるか、と注目していたが、これはないだろうというまさかの展開(これ以上は書けない)。冒頭、おどろおどろしい猟奇殺人の趣だが、なぜこのような犯行に至ったかという説明がつかない。説明がつかない以上、猟奇性は「こけおどし」というほかなく、見ている方は欲求不満に陥る。大方斐沙子の演技力は認めるにしても。エンディング、ごみ回収車を追っかけるシーンも蛇足だ。田村隆一やカフカがなぜか頻繁に援用されるが、あまり深い意味があるとも思えずセリフが空回りしている。

 三つ目。「堕落」を「狂気」に置き換えてこれでもか、と映像を展開するが、同じところをぐるぐる回っていて食傷する。「狂気」はむしろ描写を抑えたほうが、凄味が増す。かつて小津安二郎が言ったように、一番伝えたいことは映像にしないことだ。観るものの想像力を喚起するより、監督の想像力の押し付け、という感が否めない。最近、一から十まで映像にしてしまう韓流映画が「分かりやすい」と若い層に好評を得ているが、こうした傾向が続くと観る者の「堕落」につながる。

 総じて言えば、勢いはあるが話題性を追う「あざとさ」が目立つ。細部の詰めも甘く完成度は低い。

 恋の罪1.jpg

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