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傲慢な人間たち~「フクシマ」は語る [社会時評]

傲慢な人間たち~「フクシマ」は語る

 連日連夜、テレビでは原子力の専門家と称する人たちが出てきては、解説をしている。高濃度の汚染水が止まらないという。コンクリートを流し込んでもだめ、高分子ポリマーでもだめ、水ガラスでやっと止まったのだという。一部の魚からは放射性物質が検出された。とても人間の健康に影響があるというものではないという。しかし、実は数値は関係ないのである。「魚が汚染された」。この一言で、市場は福島沖で水揚げされたあらゆる魚を拒否する。あるいは競り値がつかない事態になる。でも、本当の問題の根源はこんなところにあるのだろうか。

 何度聞いただろう。「想定外」という言葉。では「想定内」とはいったい何を意味するのだろうか。核分裂反応を人為的に起こすことで、人間は巨大なエネルギーを手に入れた。遺伝子組み換えとこの核分裂反応は、神の領域に人間が踏み込んだ所業だと言われている。だからこそ、いまなお人間はこの二つの分野で手痛いしっぺ返しを食らっている。にもかかわらず、人間たちは「想定内」だの「想定外」だのと言い続けている。神の領域を襲って「想定内」とは、まさしく神を見下ろす、神をも恐れぬ所業というしかない。

 地震もまた、そうである。われわれは一瞬、地球という自然を飼いならしたかのように錯覚したにちがいない。しかし、そうではなかった。人間の存在などちっぽけなものだと、地殻のたったひとゆすりで見せつけたのだ。

 1986年に起きたチェルノブイリ原発事故は「ソ連体制のあらゆる呪い―腐敗と尊大、故意の怠慢と自己欺瞞―を体現していた」と、デイヴィッド・レムニックは近著「レーニンの墓」で書く。では「フクシマ」は何を体現しているのだろう。米ソ冷戦下でひそかに日本に持ち込まれた世界の核秩序のなれの果てであろうか。ソ連崩壊後、唯一の超大国となった米国によって主導されながら、日本の潜在的核兵器生産能力は「世界の原発大国」の名の下で維持されてきた。なんのために? 新自由主義のもと、あらゆる規制が撤廃されてきたが、原子力分野での護送船団方式だけは見事に生き残った。なんのために?

 翻ってみれば、かつて世界最強の経済を支えた日本の銀行はまさしく護送船団方式で守られてきた。しかし、それゆえに土台は朽ち果て「ノンバンク」の腐臭が日本経済を狂わせた。いままた「原子力」という名の「ムラ」の住人たちが日本の屋台骨を腐らせているように見えてならない。

 今日まで日本の原子力政策を支えてきた学者諸氏は、少なくともこの「フクシマ」の惨状になんらかの謝罪のコメントを発すべきではないのか。そして、原子力政策の大転換を促すべきではないのだろうか。いま、われわれの「文明」と「歴史」が問われている。


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