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文明論を語るべきでは~福島原発事故 [社会時評]

文明論を語るべきでは~福島原発事故

 予想していたことだが、放射能汚染をめぐる風評被害がはなはだしい。出荷制限に摂取制限まで出す政府は「当面、人体に影響はない」という。では、本当はどっちなの? 害はあるのか、ないのか。学者に聞けば「同じものを10年間食べ続けても影響がない放射線量です」などと分かったような、分からないようなことを言う。害がないなら制限しなければいい。そう思っていたら、ついに水まで「飲むな」とお達しがあった。いまのところ「1歳児まで」という制限つきだが、いつそれが大の大人にまで広がるか。

 テレビである学者は「私なら気にせず食べます」と言っていたが、そんな問題ではない。例えばホウレンソウしか食糧がない国にいて、ホウレンソウは10年間食べ続けても大丈夫な放射線量だがとりあえず規制します、と言われれば、餓死するのは嫌だから食べるだろう。しかしほかにいくらでも代替食糧があるのに、このんでそんなものを食べるのか。

 問題は「安全値を見込んだ規制値」というややこしい概念である。規制値を設ければ、規制をしなければならない。規制値を設けたが規制しないとなると、規制した側の自己否定につながる。だが「安全値」ってなんだ。例えば青酸カリの致死量。これには安全値などない。個体差は若干あるにしても、致死量を超えれば人は死ぬし致死量に至らなければ死なない。

 ■置き忘れられた論争

 と、ここまで考えて、これ以上は現時点での原発に関する考え方を仕入れなければ先へは進めない、と思うに至った。そこで書店に駆け込んだ。かなり大きな書店である。棚を探したが、見当たらない。店員さんに「原発関連の本はありませんか」と聞いた。店内書籍のデータベースで探してくれた。驚いた。目当ての本はないのだ。もちろん「原発白書」といった類の、純然たる科学技術分野のそれはある。しかし社会科学分野から原発を取り上げた本はほとんどないのだ。やっと見つけた一冊が「原発と日本の未来」(吉岡斉著、岩波ブックレット)である。


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 仕方がないので、押入れの奥からごそごそと持ち出したのが武谷三男現代論集の中の「安全性と公害」。発行は1976年である。そうだなあ。あの頃はまだ公害論争があった。原発論争もあった。いつからだろう。「原発」は「済み」のハンコが押されたのは。もちろん今でも原発に反対する人たちはいるし、海上デモをする漁業従事者の人たちもいる。しかし、社会的には「通り過ぎた」問題になってはいないか。

 武谷氏は「安全基準」というものがあるが「安全」という言葉に問題がある、という。そして「許容基準」という言葉のほうが多少ましである、と説く。武谷氏は、許容量の基本的な考え方は1954年のビキニ水爆実験で、米原子力委員会に対する日本の原水爆禁止運動がかちとったものである、という。米側の「水爆降灰は許容量以下だから無害」とする見解に「どんな微量でも害はある。そこから下は無害という自然科学的概念でなく、その人の有利と有害の兼ね合いで決められる社会的概念」と主張したのである。さらに武谷氏は許容量概念の好例としてレントゲン検査を挙げる。その人にとって何が有益か、ということである。極論すれば放射線被曝はゼロでなければならない、という人にとってはレントゲン検査は有害以外の何物でもない。

 では、現代社会で、放射線量がこれ以下ならがんは発生しないがこれ以上だと発生する、という仕組みは解明できているのだろうか。残念ながらそんな話は聞いたことがない。第一、いまの政府が採用している暫定基準値なるものは国際機関の基準をそのまま当てはめただけではないか。

 こんなふうに考えてくると、つまりは原発を社会が必要としているのかどうか、で規制値も変わってくるように思える。少々の犠牲を払ってでも必要だ、と思えば放射線の規制値は甘くなるし、代替エネルギーを求めるべきだ、と思えば規制値は辛くなる。では、今の日本に原発は必要なのか。かつてはこの議論が盛んになされたはずなのに、気づいてみればとんと聞かなくなった。いつからだろうか。冷戦下では「いい核兵器と悪い核兵器がある」などとバカな議論をする輩がいてすっかり嫌気がさし、冷戦後は「もういいか」的な空気がまん延したような気もする。


 ■安全保障と原発の関係

 そこで先にあげた「原発と日本の未来」を読む。いまのところ最新情報はこれしかない。筆者の吉岡氏は「無条件反対」ではないが積極的な推進論ではない。このスタンスは、今の社会的な温度と見あっているような気もする。そして世界の情勢を見極める。全体としては停滞している。米国はスリーマイル以来、計画が凍結され、ブッシュ大統領がゴーサインを出したが新増設は進んでいない。オバマ大統領は特に減速をかけてはいないが、進んではいない(吉岡氏は書いていないが、オバマ大統領は温暖化阻止を打ち出している。そのため原発に一定の期待をかけているかもしれない)。ヨーロッパではフランスが米国に次ぐ原発大国である。ドイツは明確に「脱・原発」に舵を切っており、少なくとも2030年代には達成を目指している。先頃もメルケル首相が福島原発事故を受けて古い原発の廃棄を進める意向を示し「脱・原発」を早めるのではないかとの見方が出ている。フランス58基に対してドイツ17基(日本は54基で3位)。両国の姿勢の違いが明白だ。

 いまのところ、原発の増設を進めているのは中国、ロシア、ブラジル。こんな中で日本はどうするか。日本の総発電量に対する原発の発電量は4分の1程度である。フランスの8割と比べるまでもなく、高くない。なぜか。吉岡氏は①インフラストラクチャー・コストが高い②原子力産業の構造不況による原子炉の高騰③発電システムのコストが不透明④火力発電よりも高い経営リスク―を挙げる。そんな状況で世界的には原発新増設は停滞するが、日本は政府の手厚い庇護のもと、着実に新増設を進めている。

 ではなぜ、日本はドイツのように原発政策を転換しないのだろうか。吉岡氏はここで「国家安全保障のための原子力の公理」という概念を持ち出す。日本は核武装をしないが核武装のための技術的、産業的な基盤を保持する。それによって日米の軍事的同盟の安定性が保持される、という考え方である。いわば「原子力は国家なり」である。

 もうひとつ、原発に期待されていることがある。地球温暖化に寄与する、という考え方である。吉岡氏はこの言説に、原発推進に熱心な国ほど温室効果ガス削減に失敗してきた、という事実を挙げる。特に日本のように原発依存度が低い国では効果は見込めないとする。

 と、ここまで書けばどうやら原発推進は極めて政治的な問題だと分かる。それにつれて、放射線の「許容量」という考え方も、きわめて政治的な問題だと分かる。果たして原発は本当にいるのか。「脱・原発」へと進む余地はないのか。少なくとも10数年置き忘れられた問題をもう一度考え直してみる必要がありはしないか。われわれの文明の将来をどうするのか、という観点から。

        ◇

 斑目春樹・原子力安全委員長が23日夜、事故後初めて会見に応じた。読売新聞によると「トラブルは技術陣の対処能力を超えた」と話したらしい。これは問題外ではないか。原発で危惧される最大の点は、制御不能に陥る点である。火発なら、大事故が起きてもほっておけばそのうち鎮火する。しかし原発はそうならない。今回は幸いにも停止後の事故だったが、これが停止前に起きた事故ならどう説明するのだろうか。こんな人を原子力安全委員長に置くのは問題だ。事故後12日間も会見に応じなかったのも、国は見ても国民は見ないというこの人の生き方がよくあらわれている。


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