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描いたのは、意識の自立~映画「英国王のスピーチ」 [映画時評]

描いたのは、意識の自立~映画「英国王のスピーチ」

 なぜだかわからないが、田中角栄のことを思い出していた。彼もまた幼いころ吃音症に悩んでいた。博労(馬の仲買人)であった父はばくちで身を持ち崩し、角栄は貧困の中で小学校を出、そのまま職に就く。そのころ、父が好きだった浪曲を口ずさんで、吃音症を克服したのだと言われている。角栄は日本の伝統芸のパターンの一つに身を置くことで自分のスタイルを見出したわけである。もちろんそれは後年、演説のスタイルにとどまらず政治家としてのスタイルにまで色濃い影を落とす。

 で、角栄とジョージ6世は一緒なのか。もちろん違うだろう。何が違うか。少なくとも映画で見る限り(映画と事実がどの程度符合するか。この作品で映画的演出はかなりあると思われるが)、吃音症の克服(といっていいかどうか…)は、あるパターンにはめることではなく、むしろ逆の道筋で行われている。

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 ジョージ6世(コリン・ファース)の運命を変えたのはオーストラリア人ライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)との出会いである。ライオネルは、お互いの関係を「平等」だと宣言し、何事も容赦しない。ジョージ6世(出会ったころはアルバート王子)の深層心理にまで踏み込む。そこで彼は、幼いころに受けたさまざまな「矯正」体験を話す。これらのことが彼の意識に「たが」をはめ、コンプレックスを生み、自信のなさにつながったと読むのは難しくない。

 「フィガロの結婚」が流れる大音量のヘッドフォンを着けさせ、シェークスピアの「ハムレット」を読ませるシーンも、無意識下の意識を彼に理解させるためだったと言っていいだろう。わざと下品な言葉を使わせたり、挑発的な言葉で意識を混乱させたり、そうすることで自然な言葉を発する訓練を重ねていくのである。つまり、ジョージ6世への永年の「矯正」によって縮こまった意識の解放。これがこの映画の最大のテーマであろうと思う。

 時代は第2次大戦へと突き進む。国王の座に就いたジョージ6世は、ナチと戦うために国民向けスピーチをしなければならない。吃音症は克服できるのか。この映画を吃音症という個人的トラブルを解決することで、国民に理解と感動を呼び、一丸となって戦争の時代へと向かった…という「歴史上のエピソード」と読むのは簡単であるし、そのレベルでも感動を得ることはできるであろう。しかし、個人の自立へ向けた努力がナチとの闘いのエネルギーを生む、と読めばこの映画はもっと深いものになるにちがいない。

 異論はあるかもしれないが、この映画を成り立たせているのはコリン・ファースの気品ある名演であろう。その意味でも、UK(ユナイテッドキングダム=連合王国)らしさの漂う映画である。

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