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濫読日記~「昭和」をめぐる二つの「失望」 [濫読日記]

濫読日記~「昭和」をめぐる二つの「失望」

「三島由紀夫と司馬遼太郎 『美しい日本』をめぐる激突」(松本健一著)

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 「三島由紀夫と司馬遼太郎」は新潮選書。初版第1刷は20101025日。1200円(税別)。著者の松本健一は1946年生まれ。北一輝研究で論壇にデビュー。「評伝北一輝」で2005年度司馬遼太郎賞。2009年には「海岸線の歴史」で日本のアイデンティティーを探った。











 なぜ三島と司馬なのか。ここに、いかにも松本らしい着眼点がある。一方はロマン派であり、一方は合理主義者である。まったく別の道を歩んでいるようでいて、一瞬の交叉をする場面がある。

 19701125日。三島が市ヶ谷に乱入し、自決した日である。司馬は毎日新聞に感想を求められ、熱気に満ちた文章を寄せる。「さんたんたる死」であり「あまりになまなましく」、こうした文章を書く気になれないというのだ。

 松本は、司馬の「街道をゆく」全60冊の解説を書いている。そして、あることに気づく。司馬の「街道をゆく」には、天皇の物語がない。

 三島と司馬の戦争体験。三島は徴兵検査で肺浸潤と「誤診」され、「逃げるように」その場を立ち去った、と三島の父の回想録にある。司馬は戦車隊の小隊長として終戦を迎える。明らかにここでは、三島の屈折が「戦後」を見る目に投影されている、とみて差し支えないだろう。

 2人の思想はパラレルではない。陰と陽なのか。裏と表なのか。どこかで通底するものがあるというのが、松本の見立てであろう。そしてこの二つの思想の関係がさまざまな構図の中で語られるのである。司馬は、大久保利通を「政治的人間」として評価する。一方で西郷隆盛には「思想像としてどういう形態をしているのか、きわめて理解しがたい」という言葉を投げつける。そのうえで、征韓論に革命伝説の死地を求めるがごとき西郷の言動の対極に大久保を置き(「翔ぶが如く」)、「大芝居に命まで捨てようと思ってかかって」いる西郷に対して「そうされては彼の新国家はぶち壊しになる」という大久保の苦々しそうな視線を描く。松本は、こうした西郷と大久保の関係を三島と司馬になぞらえるのである。

 このほか朱子学と陽明学、乃木希典をめぐる評価、東大全共闘と三島の論争などを取り上げ、2人の思想的位相を明らかにしていく。

 そして、究極的に2人が味わった共通の思い。それは、道筋は違うが戦後日本の空洞化した繁栄への失望感であったことは間違いない。

 それにしても、「美は美の中に完結する」ということを三島は東大全共闘との対話で述べているが、同じことを司馬が言及していたとは驚きであった。そういう発見のある1冊でもある。


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代官山@美容室スタッフ

はじめまして!寒くなったり暖かくなったり大変ですが、体調管理に気をつけてくださいね☆応援しています。

by 代官山@美容室スタッフ (2011-03-09 19:45) 

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