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濫読日記~ある軍都の記憶 [濫読日記]

濫読日記~ある軍都の記憶


「ヒロシマ独立論」(東琢磨著)

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 「ヒロシマ独立論」の初版第1刷は2007年8月1日。青土社刊、1900円(税別)。著者の東琢磨は1964年広島市生まれ。2005年に東京から広島に本拠を移す。ヒロシマ平和映画祭実行委員。














 昭和2186日のある地方紙にはこんな見出しが躍ったという。

 「けふぞ巡り来ぬ平和の閃光※」

 投下されて1年後、原爆は「平和の閃光」と表現されたのである。その翌年6月には「平和の息吹で原子砂漠をおおう※」とある。もちろん、こうした表現がなされた背景にはGHQの存在があるだろう。しかしこの時期からヒロシマは「砂漠」からの復興の道筋をたどったのである。そして被爆前の都市の記憶は見事に抜け落ちていく。「廣島」の陰影を持たぬ「のっぺり」とした相貌が都市の歴史をかたち作っていく。

 「ヒロシマ独立論」は抜け落ちた記憶の穂を拾い集めて歩く「路上観察」の記録である。著者の東琢磨は東京で評論家活動をしたのち、広島へ帰郷する。そこでまずベンヤミンのこんな言葉を引用する。

「美しいものが効果をもたらすのは外国人にだけである。(略)ある都市を描写するためには、そこで生まれ育った者はもっと別の、もっと深い動機がなければならない。地理的な遠くにではなく過去へと旅するものの動機が」

 当然のように東は「軍都・廣島」の記憶を呼び起こす。他者の記憶を自己の記憶として取り込む。「廣島」から「ヒロシマ」を凝視する。その思想的営為を栗原貞子に見、鄭暎恵の「多層的な風景」に見る。

 戦前に大本営が置かれた「軍都」の記憶はある種の危険なノスタルジーを抱かせる。だが近世―近代においてなぜ広島は「軍都」になったのか。それは広島が「権力の空白地帯」だったから、ではないのか。東はこう書く。

 「戦前の広島は、貧困につけこまれて軍都にされ、大本営を置かれ、さらに軍都として成長していった」

 軍都として再編され、それゆえに原爆を投下された町・広島。それなら、その連続性の中に広島をとらえていかなければ、ひとの生き死には見えてこないのではないか。

 長々と書いたが、これが東の「都市を描写する『動機』」であろうと思う。

 私見だが、都市にはある種の猥雑さが付きまとうものだと思う。人間の生き死に、愛憎が絡むからである。しかし、ヒロシマという顔には、この種の猥雑さがない。それは昭和20年8月6日をもって町の「断層」が抜け落ちてしまったかのような状況が生まれたからである。

 東は「広島は墓の町である」と書く。たしかに中心部にあって広島の「軸」をなす平和公園は死者たちの空間である。そして「墓の町・広島」は近代において再編された都市空間であることからも、不思議な権力志向の招来を生む。あたかも、真空地帯に風が巻き込まれるように。例えば平和祈念式典の「全体主義的な雰囲気」(東)や暴走族追放条例にみる「日常の警察化」。それは、東の文章ではこうなる。

 ――この国の「市民社会」のほのぼのとした祭が、北の共和国のマスゲームに限りなく似通って見える時に、その裏に貼り付く「闇」の深さにはいっそう慄然とせざるを得ない。

 東は「ディープな広島」を歩く。

※いずれも財団法人広島平和文化センター「平和式典の歩み」から引用。

ヒロシマ独立論

ヒロシマ独立論

  • 作者: 東 琢磨
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2007/07
  • メディア: 単行本



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