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マスコミは酔っ払い?~「市民」不在の秋葉市長会見 [社会時評]

 マスコミは酔っ払い?~「市民」不在の秋葉市長会見

 秋葉忠利市長は2月4日、これまで「拒否」してきた会見に応じたが、次期市長選不出馬についてはいっさい答えなかった。記者との感情的とも思えるやりとりもあったが、それだけに秋葉市長の思考回路がよく見える会見でもあった。

 驚いたのは「酔っ払いのカギ探し」という「寓話」の披露である。市長が「マスコミの報道は不正確」としたのに対し、記者が「論点の違いでは」と切り返した際に持ち出された。酔っ払いが闇夜に鍵を落とし「そこにカギを落としたのか」と問われて「街灯があって明るいのはここだけだから、ここを探しています」と答えたという。つまりマスコミは報道の光が当たっているところだけに真実があると思っているとの皮肉が込められている。しかしこれは、マスコミは酔っ払いと同じようなもので見境がないと言ったに等しい。よく記者も怒らなかったものだ。

 会見のほとんどはユーチューブでの発信と会見「拒否」の問題に費やされている。その中で、先にあげた「真実」という言葉が多用されている。聞いていてこの「真実」という言葉の定義がよく分からない。当事者間で共通に価値を認められた事実が「真実」ではないのか。1人だけが「真実」だと言い張っても、それは「真実」とは言わず「主観」という(これは裁判での審理を見ればよく分かる。ただしここでも「裁判的真実」という限界はあるのだが)。では「当事者」とは誰のことだろう。この会見で取り上げられた限りでは、少なく見積もっても行政(市長)と市民であろう。つまり市長も市民も「これは価値がある、動かせない事実」と認めたものが「真実」ではないか。そうした視点でこの会見を聞くと、ここには無残なほど市民が「不在」である。市民と関わりないところで市長が自らの「正しさ=主観的な」を言い張っている。それはこんなやり取りに現れている。

 記者)マスコミの論点より市長の論点のほうが真実に近いと。

 市長)それは当然でしょう。決定を下したのは私ですから。決定を下した過程を説明するのが真実。憶測してああだろう、こうだろう、それは真実とは違う。ですからあることないこと含めて、あることないことというのは言葉が過ぎていますが、皆さんがお考えになったことは書きつくされている訳ですからそれ以上はもう、真実は皆さんに説明したとおりです。

 ここでは見事に市民の声は無視されている。市長はただ、自らが下した決定の正しさを発信したいだけなのだ。例えばそれを市民はどう見るか、過去の事例と照らし合わせてどうなのか、などはすべて「憶測」だというのだ。できるだけたくさんの目、あるいは意識を通してこそ「真実」は見えてくると思うが…。

 実はこのことは市長の論旨の不明確さ(あるいは便宜的な使い分け)にも通じている。市長は「出馬、不出馬の問題は公務ではない」という一点を「次期市長選不出馬で会見は開かない」→「ユーチューブでの一方的な発信」の根拠にしている。その一方で「定例の会見は開く」としている。しかし「多忙のため」、1月には定例の会見を開くことができなかった。この日の会見でも、そのことの釈明が行われている。それはこんなふうに語られている。

 市長)(次期市長選不出馬を発表した)1月4日以来、本来なら必要でない仕事も増えた、何とかしろということもあるかもしれないが、忙しかったことは事実。


 これはおかしくはないか。市長は別の個所で「(私の場合)政治家と市長は100%一致している」と述べている。つまり「市長」をはみ出して「政治家」である部分は皆無だというのだ。しかし、よく考えてみよう。次期市長選不出馬は市長の職務でないとしても、政治家の領域の判断ではないのか。マスコミはそう思っているから「会見を開いてほしい」と言っているのではないのか。これを政治家としての判断ではない(市長=政治家といえば、そうなる)とすると、どういう領域での判断になるのだろう。まさか一私人としての判断であり、そのうえでユーチューブに投稿したということでもないだろう。少なくともこの判断は、これから4年間の市民生活に影響を及ぼしかねないのだから。つまり、この市長は「公務外」の事情によって「公務」である定例会見をさぼったことになる。

 こうした「公」と「私」のあいまいさは他にもある。ユーチューブでの投稿では寄せられたコメントは承認制によって市長礼賛だけが掲載された。このことを記者も突いている。そこではこんな答え方をしている。


 市長)一次情報を伝えるというのが第一の目的。だからコメントを載せなくても良かった。ずいぶん肯定的なコメントが多かったので皆さんに見てもらったほうがいいかと。


 ふーん。ではここで「真実」という言葉はどのように使われるのだろう。まさかとは思うが、寄せられたコメントが「真実の声」とでもいうつもりなのだろうか。「自由な言論」というものの価値に対する無神経ぶりにはあきれる。動画投稿に関しては、こんなこともいっている。


 市長)申し上げなかったが時間の都合もある。ユーチューブはあくまでも一次情報を提供するのが目的。


 なんだ、自分の中で都合のいいように「編集」しているのだ。市長は別のところで「不正確な情報、私から見てですが、マスコミのみなさんの編集の結果、私から見て不正確な情報が出る」と述べている。こうなると正確、不正確とは単に主観の問題になりはしないか。市長が「不正確」だと断定すれば「不正確」なのだ。それを一方的だといえば「私のいうことが真実なのだ」ということになる。これはもはや、新興宗教の教祖である。もう一つ「公」と「私」の曖昧さについて。ある記者が質問していたが動画投稿は「yasuwo53」の名でなされている。この人物は何者なのか。動画は個人的な一こまではなく、広島市長の意思の表明としてつくられている。それなら動画の信用性をどこで担保するのか明らかにしなければならない。それは少なくとも政治家としての倫理の問題である。市長は「法的に問題ない」としているが、ではこの動画が完全な自由意思によってつくられたことをどこで証明するのだろうか。


 なんともやりきれない「市民不在」である。だからオリンピックについて問われれば市長からはこんな答えが出る。


 市長)今決めろと言われれば当然手を挙げる。


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コメント 3

yasuwo53のB(笑)

この会見で呆れて物が言えないのは、マスコミ(記者クラブ)は市長が発表した市政についての報道は一切せず、市長の「個人的な決定」への質問に終始していることです。これこそ、市民不在ではないでしょうか。

その他の事実に反する報道についてはURLをご覧ください。
by yasuwo53のB(笑) (2011-02-07 17:14) 

asa

こんな詭弁もあるのかと、ご参考までに読んでみてあげてください。
by asa (2011-02-07 22:58) 

yasuwo53のB(笑)

コメント承認ありがとうございます。
筋の通った理解のできる日本語による異論・反論・オブジェクション、大募集です(^^)
by yasuwo53のB(笑) (2011-02-11 08:44) 

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