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苦悩する米国の知性~濫読日記 [濫読日記]

 苦悩する米国の知性~濫読日記

「ライシャワーの昭和史」ジョージ・R・パッカード著

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「ライシャワーの昭和史」は講談社刊。2600円(税別)。初版第1刷は20091117日。著者ジョージ・パッカードは1932年、米国生まれ。1936年に米国情報部員として来日。東京大留学。駐日大使特別補佐官の後、ニューズウィークワシントン特派員などを経てジョンズ・ホプキンス大高等国際問題研究大学院長。米国を代表する知日派。














 エドウィン・ライシャワー。1961年から66年まで、ケネディ政権の駐日大使を務めた。いまだに、駐日大使、というより日米間で橋渡しをした人物の中で、彼ほど両国に影響力を発揮した存在はなかったのではないかと思う。それだけにライシャワーは時として「功」と「罪」を語られる。ベトナム戦争の最中、そして安保闘争の直後、いわゆる日本の左翼陣営にとっては、そのソフトで知的なアプローチが「難物」でさえあった。「ケネディ―・ライシャワー路線」は、日本の共同戦線の切り崩しを図る米帝国主義の最前線の戦略ととらえられたこともあったのだ。

 この書の序文は、そのあたりの事情を簡潔に語っている。引用してみよう。「エドウィン・O・ライシャワーは太平洋の両側で、賞賛され、嘲笑され、罵倒され、あげくの果てに無視された。しかし、1990年のその死後に起きたさまざまな出来事は、彼が最初から、ものを正しく見ていたことを証明している。これが本書の主張である」―。

 筆者パッカードは63年から65年まで、ライシャワー駐日大使の特別補佐官を務める。その後は、ジャーナリズムとアカデミズムの間を行き来する。ライシャワーは宣教師の息子として1910年、日本で生まれる。日韓併合の年である。父は日本文化に仏教が与えた影響に注目。ライシャワーもその思想を受け継いだとパッカードは書いている。ライシャワーは16歳で米国に渡り、やがてハーバード大学院で学問に没頭する。ハーバードへと向かったのは1931年。20歳の青年に、不況にあえぐ米国社会はどんなふうに映っただろう。戦争の暗雲はすでに垂れこめていたはずだ。ハーバードで彼は日本語課程と中国語課程を選択し、東アジア研究にいそしむ。1935年に日本に戻ると東京大学で再び研究の日々を送る。ここでのテーマは「円仁」である。「円仁」は、20年間にわたってライシャワーの関心の対象となった。日米間で戦争が始まる直前の1941年夏、国務省極東課に招聘される。

 このキャリアを見ると、彼が日本文化のかなり深いところに触れていたことが分かる。だから戦争が終わる直前の19451月には、家族にあてた手紙の中で「われわれがどう望もうと、(天皇を)退位させることはできません」と書くのである。そして広島への原爆投下を聞き、「驚愕すべき事態にうろたえた」とパッカードは書いている。その根拠はこの直後、家族にあてた手紙であるが、その内容はかなり興味深い。

 「もし戦争で原爆が使われなかったならば、人々は核兵器の恐ろしい破壊力を知ることができただろうか、とも思うのである」―。

 「長崎への投下はまったく理由が成り立たない。アメリカ当局首脳は、最初の原爆投下には苦悩したが、二番目のときには、熟慮した様子はなく、ほとんど迂闊に約七万人の人間を抹殺したのである」―。

 やはりこの記述の裏には、日本で生まれ文化を愛する米国人ライシャワーの苦悩を見て取るべきであろう。ライシャワーは1945年から60年まで、ハーバード大で研究者としての絶頂期を送る。自ら「黄金時代」と形容している。50年、40歳の時には極東言語学部教授の地位を手にしたのである。

 その後、彼は米政権への批判を強める。ベトナム戦争にも、「泥沼化」を予見したうえで「アジアのナショナリズムを支援せずに、それを敵に回すことが如何に滑稽な間違いか」と批判している。この視点はインドシナ情勢をそれなりにとらえていると思われ、著作として出されたが無視され、アメリカはダレスによって逆の方向へと向かう。

 そしてケネディが登場する。駐日大使のポストは、国務省エリートキャリアの指定席だった。日本を知っていることも、日本語を話せることも、ポストの条件ではなかったという。

 ここで筆者はダワーの著書を引用する。「『そこまで言うなら、一丁やってみろ。できないなら黙っていろ』と言われたのだと思った」。受諾の一報はニューヨーク・タイムズ紙に漏れる。

 ライシャワーの目標は、日米の対等なパートナーシップの確立だった。軍事力も、それに基づく同盟関係も対等とはいえない中で、おそらく困難な仕事であったに違いない。池田・ケネディの日米首脳会談では「イコール・パートナーシップ」が何度も使われる。池田を「驚くほど立派な人」というライシャワーは、三木武夫、宮沢喜一、中曽根康弘とも親交を結ぶ。岸信介や吉田茂は共通項を見いだせなかったという。そんな中で大平正芳には特別な絆を感じたらしい。朴訥で正直で常識的な大平は、信頼に足る人間であったのだろう。「真の意味でのステイツマン」と、ハーバード大名誉学位の推薦をするが、ほどなく大平は急逝する。

 ライシャワーはリベラルであったがマルキストにはあまり理解を示さなかった。一方で日本の核アレルギーにも理解を示した。だから佐藤栄作首相が1967年に表明した非核三原則に共鳴している。だが「持ち込み」(イントロダクション)の問題では、日本政府が否定的見解を表明したことに狼狽している。それはかれが外交官であると同時に歴史家でもあったからだ。

 ここまでたどってみても、戦後日本の礎に、彼がどれだけかかわったかが分かる。ライシャワーは、日本にとってはこれ以上ない「米国の知性」であったと思える。皮肉なことに、それがライシャワーにとっては苦悩の種であったことも容易に想像できる。筆者がかつてライシャワーの下で働いた経験を持つだけに、ややライシャワーに寄りすぎた感はあるが、彼の人間的な内面は非常によく分かる一冊である。

ライシャワーの昭和史

ライシャワーの昭和史

  • 作者: ジョージ・R・パッカード
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/11/17
  • メディア: 単行本





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