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この異形の政治家は成功者か~濫読日記 [濫読日記]

この異形の政治家は成功者か~濫読日記


「田中角栄の昭和」(保坂正康著)

 田中角栄の昭和_001.JPG  ★★★☆☆

 「田中角栄の昭和」は朝日選書。900円(税別)。初版第1刷は2010730日。
 著者の保坂正康は1939年生まれ。ノンフィクション作家。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。「昭和史講座」など昭和史研究で第52回菊池寛賞。










 庶民宰相と呼ばれたこの政治家、成功者だったのか、失敗者だったのか。亡くなって17年になるが、答えは確定しているとは言い難い。なぜか。伝えられる姿があまりにも多岐であり、万華鏡をのぞき見るかのような感覚があるからだろう。例えば、政治家としてどうだったか。宰相としてどうだったか。経営者としてどうだったか。人間としてどうだったか。それぞれ違う答えが見つかるに違いない。

 不世出であるとともに異形でもあった政治家・田中角栄については、既にあまたの「論」がある。そんな中で保坂正康はなぜ今、彼の相貌をあらためて描こうとしたのだろうか。いうまでもなく、いまだ描き切れていない「角栄」が、目の前にいたからであろう。それはどんなかおをしていたか。
 昭和の時代を生きた一人の日本人としての角栄。
 これこそが、保坂の描きたかった「角栄」に違いない。
 例えば、田中角栄の戦争体験。これは新鮮な視点である。一人の政治家の思想を語るうえで戦争体験は欠かせないテーマであるはずなのに、田中に関する限りほとんど語られたことがない。別の言い方をすれば「田中角栄の戦争」が語られてこなかったことこそが、語られなければならないテーマであるだろう。
 保坂は、ある「田中信者」の言葉を紹介している。
 ――「(田中を)尊敬しているというのは、あの人は戦争が嫌いだったと思うからや。あの人は仮病を使ってでも軍隊を離れた人と思うからや」と言葉を足した。
 田中は昭和13年春、甲種合格となり、翌年満州に送られる。自伝では昭和1511月に「肺炎で倒れた」とあるが、戦友の証言では「昭和16年に入ってから」とするものが多いという。しかしこの1年半ないしは2年間の田中の戦争体験について、周囲の記憶は驚くほど薄い。保坂によれば、田中は前線に出る道を拒み、事務的な仕事に携わったのだという。田中自身も、この頃のことを語ったことはないようだ。保坂によれば「『不愉快』であると同時に『触れたくない』との思いがあるからと言っていいように思う」。
 保坂によって描かれた田中の「戦争を見る目」は極めて庶民のそれである。「こんな戦争のために、ここで死んでたまるか」という目線である。例えば中曽根康弘あたりの戦争観とは対極にあるものであろう。このあたりを浮き彫りにした点に保坂の「仕事」を感じる。
 その後の「政治家・田中角栄」が表(中央政界)と裏(地元新潟での政治資金作り)の顔を使い分けるあたりは、既存の著作データによるところが大きい。しかしそれもやむを得ない面がある。というのも、立花隆「田中角栄研究」はいまだに輝きを失わず屹立する「仕事」であるからだ。
 結局、政治家としての田中の軌跡に「時代」という額縁をかぶせた―。この著作の意味はそんなところにあると見る。そんな中で、いくつかの示唆に富む指摘を読み取ることができる。例えば都市政策大綱―「列島改造論」に至る思考の価値を、「都市と農村」という対立の図式から「農村の都市化」に変えた点に見出していること。田中と三木武夫の相克を、常に自らの考えだけで動く三木と似たところから来る嫌悪感と喝破していること。そしてなによりもうなずくのは次のくだりである。
 ――あの時代はおかしいのではないか、このような誤りがあったのではないか、という基本的な発想が、田中には全く見当たらない。
 田中は、天皇制の是非も含めて「戦争」にほとんど言及したことはない。それは、政治家としてみれば異質だが、一庶民としてみれば、きわめて自然な思考法にも思える。田中という人間を理解する鍵はこのあたりにあるだろう。だから保坂は「あとがき」で、政治家・田中角栄には「ほれこむつもりはないし、批判の目だけで見てもいない」のだが「近代日本のもっとも日本人らしい日本人との思いがする」と書く。
 そしてもう一度、当初の問いを発しなければならない。「この異形の政治家は成功者だったか」-。




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