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危うくて心地いい関係~映画「パレード」 [映画時評]

危うくて心地いい関係~映画「パレード」

 さすが、精神科医は分析が違う。五輪の国母問題で隔靴掻痒、うまくいい切れなかったことをずばり言い当てている。3月4日付朝日新聞「私の視点」への斎藤環の寄稿。要するに、こんなことだ。

 

 「世間は人を罰しない。世間がするのは『気が済む』まで『恥をかかせる』ことだけだ。家族ぐるみで恥をかかされた人間は『反省したふり』はしても、本当に反省することは決してない」

 「品格の問題とは洗練された世間体のことであり、世間体とは要するに印象の問題だ。印象に基づくバッシングは倫理の問題を曖昧にする」

 

 姜尚中と森達也の対談「戦争の世紀を越えて」【注】で、気味の悪いエピソードが出てくる。アウシュビッツで、死体焼却場とナチスの食堂が隣り合わせに作られていたというのだ。戦争の世紀である20世紀には随分、虐殺行為が行われた。しかしナチスによるホロコーストはどの虐殺行為にも当てはまらない。その一つが、死体処理と食事を隣り合わせにするという感性だ。それほど「虐殺」が日常であったということだろうか。ある意味でこれは「虐殺行為」そのものより、こわい話だ。

 

 映画「パレード」(行定勲監督)は、共同生活をする男女がそれぞれの目で日常を語る。4人が暮らしているところに男娼の小窪サトル(林遣都)が転がり込むところから、ストーリーが展開する。共通しているのは、深くはまりすぎないこと。「インターネットでチャットしているようなもの」であり、それぞれが「シリアスは受け付けない『この部屋用の私』」を演じる。

 では、まったく干渉し合わないかと言えば、そうでもない。マンションの隣室で売春が行われているのではないかと「潜入捜査」を試みたりする。だが、すべてが「ごっこ」なのだ。触れあう部分だけを「仮装」し「甘え」が充満する空間を生きる。本当の「自分」はそこにいない。それがとても心地いい。だからイラストレーターの相馬未来(香里奈)がこどものころの悲しい話を始めるとサトルは寝たふりをしてしまう。

 

 そしてラストシーンへ。映画配給会社に勤める伊原直輝(藤原竜也)によって人間として、ある究極の(犯罪)行為が行われた時、この空間の住人たちはどう反応するか。もちろん「甘い日常」は何物にも代えがたいのだ。斎藤の言葉を借りれば、「世間」である同居人たちは「罰する」ことや「倫理」ではなく「気晴らし」を優先させることになる。森の言葉でいえば「人間の邪悪さ」がのぞく。

 無関心を装う表情が醸し出す恐怖。原作(吉田修一)のあとがきで作家の川上弘美が書いているように「こわい」作品なのだ。しかし、このテーマ自体は映画より小説向きだろう。スクリーンでは若干「作った」感じが目につく。林遣都のほか、大垣内琴美を演じる貫地谷しほりが好演。琴美はテレビタレントである恋人からの電話をひたすら待ち続ける。時代のモラトリアムの空気を象徴的に演じている。

 

【注】集英社刊。第1刷は2010年2月25日。


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