巨大なブラックホールを各人各様に語る~濫読日記 [濫読日記]
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私たちはいまだに巨大なブラックホールを抱えている。戦前から戦時へと至った日本思想の展開。かつて丸山真男が総括してみせたが、なおそれですべてが解き明かされたわけではないのだ。この思想の流れを理論的に解明しきれていないために、日本特殊論がいまなお幅をきかす。
ネットをステージとする知の発信企業「シノドス」が主催したセミナーの内容をまとめた。だから、この著作の本当の仕掛け人はシノドス主宰者芹沢一也である。それはともかく、ネットを舞台にこれだけの知的内容が集約されたことが驚きであり、意義あることと思える。
論者は5人。いずれも論客である。それぞれの章で、評論家の荻上チキがナビゲーターを務める。なによりも、それぞれに個性的な語り口が面白い。シリアスなテーマだが、つい引き込まれてしまう。
トップバッターは中島岳志。「保守・右翼・ナショナリズム」と題して語る。中島は最近、テロリスト朝日平吾についての著作をモノにしている(「朝日平吾の鬱屈」)。池島信平や田中美知太郎、福田恆存らの正統かつ穏やかな保守主義を紹介しながら、熱狂的右翼への違和感を語る。というより、むしろ保守とは熱狂とは別の次元のものだという。そこで中島は西部邁の言葉を引用する。
「保守思想が『熱狂』を嫌ってきたのは、熱狂によって議論が邪魔をされるからである。熱狂することができるのは、単一の価値が信じられているからにほかならない。それに対し保守が議論を通じて探求するのは、葛藤しあう諸価値のあいだの平衡(もしくはそれらの総合)である」
戦中の思想に池島らが終始覚えてきた違和感も、ここにある。しかし、保守と右翼は根本的に違う。それは理想社会の実現についての態度だといっていい。保守はその点である種の諦念を持つが、右翼思想には可能性を信じるロマン主義が存在する。これらを明治維新、北一輝、大川周明らを絡めて論考する。ここで北や大川を「右翼思想の本流ではない」と断じているあたりが中島らしいところであろうか。
2番手の片山杜秀は「中今・無・無責任」と題して語る。特に京都学派や原理日本社が唱える「無の政治」をそのまま丸山真男がひっくり返して「無責任の政治」としたあたりの語りは切れ味がいい。
「同じ内容だけれども、拠ってたつ価値観の相違ゆえに正負が逆転している。それだけしか違いがないともいえます」
丸山理論を、片山はこのように解剖して見せる。
「その大正・昭和の挫折の経験として括弧に入れられる物語を、日本ぜんぶの普遍的物語にして、戦後日本におけるスタンダードな価値観をつくってしまったことで、ますますおかしなことになっているのではないか」
そのとおりだろう。
植村和秀は「思想史家からの昭和史」として丸山真男と平泉澄、西田幾多郎と蓑田胸喜の4人の思想家を取り上げた。丸山と平泉は理の人として、西田と蓑田は気の人として、それぞれ両極にあるという。これまた思想のドラマを見るようで、面白い設定だ。
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