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ヒロシマに五輪は似合わない [社会時評]

 ヒロシマに五輪は似合わない 

 *一本の記事
 *広島・長崎のどたばた
 *石原都知事の野望
 *五輪は五輪でいいではないか

 なんだか、もやもやとしていたとき、一本の記事が目にとまった。「五輪招致『被爆者を愚弄』」と見出しのついた、1118日付朝日新聞の記事である。地方版で目立たない扱いだった。
 現在は沖縄に住むある被爆者が広島、長崎両市長に手紙を送ったのだという。男性は広島市役所で会見し「広島は慰霊の場。五輪というお祭り騒ぎをやるのはばかげている」と憤った、とある。
 この意見に全面的に賛成だ。「もやもや」としていたのは広島、長崎両市長が五輪開催に手を挙げたとのニュースに接して、何とも言えない違和感があったからだ。抗議の手紙を送った男性、月下美紀さん(68)の感覚はまったく正しいと思う。
 2020年夏季五輪の開催構想は、新聞を見る限り突然のトップダウンで発表されたようだ。特に長崎市民にとっては寝耳に水ではなかったか。人口44万人の都市で、それほど背伸びをしてまで五輪を開く意味がどこにあるのだろう。しかし政令市の広島だって、身の丈にあったアイデアとはいいにくい。1994年にアジア大会を開いたときでさえ、財政的には青息吐息ではなかったか。どう考えても秋葉忠利・広島市長のパフォーマンスのにおいがぷんぷんする。前市長射殺事件で急きょ立った「とりあえず」の田上富久・長崎市長は、秋葉市長に鼻面を引き回されているとしか思えない。
 これを見た石原慎太郎・東京都知事は「平和や共存、調和をオリンピックが眼目とするのなら、一番花形のスポーツ、例えばマラソンとか、広島でやったらいいと思う」と語っている【注①】。なんでそうまで五輪開催にこだわるのか。「環境」でダメなら「平和」で、と思っているのだろうか。日本国民、東京都民がそれほど切実に五輪を開いてほしいと思っていないことは、各種世論調査で明らかなはずだ。
 東京と広島で五輪を共同開催する。1種目だけ広島会場で開く。なるほど、招致費用を含め財政面は東京都が面倒をみることになるのだろう。しかしこれは、要するにヒロシマをダシにする、ということではないのか。なんでそうまでしなくちゃいけないの? という思いがぬぐい去れない。石原都知事の野望の踏み台になるだけだ。長崎市民にとってはもっとあほらしい話だと思う。実際、長崎市民の間では反対運動が起こりつつあると聞いている。なぜ広島市民は怒らないのだろう。なぜ広島市民は反対運動を起こさないのだろう。秋葉市長のパフォーマンスのために莫大な税金が投入されてしまうかもしれないのだ。
 別段、五輪を否定しているわけではない。人類が最も早く走る。人類が最も早く泳ぐ。人類が最も高く飛ぶ。その限界を突き抜ける姿は尊いと思うし、その瞬間をぜひ見たいと思う。月下さんは手紙で「ナショナリズムをいやがおうでもあおるオリンピックを共同開催するのは、被爆者を愚弄した企画だ」とも書いている。これもその通りで、すべての人類はどこかの国家に属するしかない以上、五輪がナショナリズムを鼓舞する場になってしまうことは否定できないだろう。あるいは人類社会が商業主義によって支えられている、という側面がある以上、コマーシャリズムのしがらみも否定できない。これらは過度でない限り、容認すべきだと思う。
 だが「2020年核兵器全廃」と五輪はどう結び付くのだろう。五輪は五輪で価値あるイベントだ。別にお題目をつけなければならない理由はどこにもない。ましてや「2020年に核兵器が全廃する」などと、どこに根拠があるのだろう。
 月下さんは手紙でこう書いている。「アウシュビッツで(五輪を)やるでしょうか」。記事でも触れているが、この言葉から、ナチス・ドイツの下で1936年に開いたベルリン五輪を思い出す【注②】。人類の祭典が政治的プロパガンダの色彩を帯びると、ろくなことにはならない。
 【注①】1112日付朝日新聞
 【注②】沢木耕太郎「オリンピア ナチスの森で」(集英社)に詳しい 
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コメント 1

tomo

広島の「平和の灯」から聖火を採火し、日本の他都市で開催する。
こんな案はいかがでしょう。
by tomo (2009-12-03 18:01) 

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