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中途半端なハードボイルド~映画「笑う警官」 [映画時評]

 中途半端なハードボイルド~映画「笑う警官」

  角川春樹にとって12年ぶり、「時をかける少女」以来の監督作品だという。長いブランクの間に変わったのだろうか。見終わった感想は「やっぱりね」。角川はメガホンを置いて潔く映画から手を引くべきだろう。
 原作は佐々木譲。北海道新聞が暴いた道警の裏金問題に材をとっている。といっても「裏金」は背景の書割にすぎない。そこから漂う「腐臭」をシナリオのベースにしている。女性警官の小島百合(松雪泰子)が若手警官の新宮昌樹(忍成修吾)に問う。「あなたは警察と言う組織の一員になりたかったの? それとも正義のため?」。組織が正義を体現しているなら、幸せなことである。
 といっても組織か正義か、の二元論になれば「テロか民主化か」とフセイン打倒に走ったブッシュの戦争のごとく、西部劇になってしまう。「朱に交われば赤くなるというが、赤くなりきれない人はどうする」とのセリフがあったが、このあたりがハードボイルド的なテイストになっている。葛藤の末の正義でなければ正義ではないのだ。
 女性警官が殺され、直後にある警官の射殺命令が出る。本当の警官殺しは道警の幹部であり、標的になった警官は翌日、道議会100条委員会で裏金問題について証言することになっていた-。これを知った警官・佐伯宏一(大森南朋)が児島、新宮らと事件の真相を突き止める。簡単にいえば、こんなストーリーだ。
 しかし角川春樹はハードボイルドを全く誤解している。大森南朋にサックスを吹く真似をさせてジャズを流して何になるのだろう。オープニングとエンディングのタイプライターによるタイトルバックはなんなのだ。この手の米国映画に対するコンプレックスの裏返し(つまり質の悪いパロディー)としか思えない。
 前半はほぼ原作並みに進められているが、後半はかなり改変されている。それも、映像的に都合のいいように。女性警官殺しは結局、生活安全部長(矢島健一)だったと分かるのだが映画ではさらに黒幕の刑事部長(鹿賀丈史)を設定する。佐伯らのたまり場「ブラックバード」の警官崩れのマスター(大友康平)が、終盤でスナイパーとして登場する。これらはまったくご都合主義としか思えない。したがって、ドラマとしての緊迫感が原作に比べ圧倒的に薄れていく。こういうのを「改悪」というのだろう。
 なぜ、ドキュメンタリータッチの渋めのハードボイルドにできなかったのか。主演に起用したのは「ヴァイブレータ」や「ハゲタカ」の大森だ。この俳優の存在感はいうまでもない。映像をいじればいじるほど底が浅くなる、というのは「汚れた英雄」以来の角川春樹の悪い癖だ。もう「映画遊び」はやめたほうがいいと切実に思う。
 それから、タイトルの「笑う警官」が意味不明。原作は当初「うたう警官」だったが、これは「うたう=自供する、自白する」と、主人公が警察のバンドに属していたことからきている。原作のあとがきにはマルティン・ベック・シリーズから借用して改題したとあるが、そんなことをする必要がどこにあるのか。 
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