オバマは核兵器廃絶の伝道者なのか [社会時評]
オバマは核兵器廃絶の伝道者なのか |
* プラハ演説は何だった
* 核抑止論は消えたわけではない
* オバマは被爆地で何を発言するのか
水の半分を飲み干したコップを指さして悲観論者は「あと半分しかいない」と言い、楽観論者は「まだ半分ある」と言う。
では、この数字の変遷を見てそれぞれの人たちはなんと言うだろう。
広島・長崎への原爆投下を支持しますか
1945年8月(投下直後) 支持85% 反対10% 意見なし5%
2005年7月 支持57% 反対38% 意見なし5%
(米ギャラップ社調査、米国民対象)
=8月4日付日経「核なき世界への道」から=
記事では「若い世代ほど支持率が下がった」とある。
原爆投下から60年たっての米国世論の動向である。支持率の数字を「まだこれだけ高いのか」と読むか「こんなに減ったか」と読むか。
投下時に20歳だった人は調査時点で80歳である。細かいデータを持たないが、おそらく米国男性の平均寿命からすると、太平洋戦争を体験した人たちの多くが既に亡くなっていても不思議はない。それを考えれば、なお半数を超す原爆投下支持は「まだこれだけ」と読むのが妥当ではないだろうか。
その背景を考える。①原爆投下によって戦争が終結したという論理を否定すれば核兵器の犯罪性が浮き彫りになり、米国軍人の「名誉ある戦死」そのものが否定されかねない②「熱い」戦争を終わらせた(と言われる)核兵器は「冷たい」戦争の始まりにつながっている。核兵器投下の正当性を否定すれば核抑止論の否定に直結する③米国の巨大な産軍複合体の存在―。
こうした世論を背にオバマ大統領は4月、プラハで演説をした。この演説によってオバマは核兵器廃絶の伝道師に祭り上げられてしまったかに見える。しかし、演説【注①】を読むと、発言には周到に予防線が張られていることが分かる。第一「私が核兵器をなくす」などとは言っていない。「核兵器を使用したことがあるただ一つの核保有国として、米国は(核兵器廃絶へ向けて)行動する道義的な責任を持っている」と言っているだけだ。しかもその直後で「(ゴールは)私が生きている間には恐らく(難しいでしょう)」としたうえで「こうした(核)兵器が存在する限り、米国は敵国を抑止するために安全でしっかりした、効果的な(ミサイルの)保有量を維持します」と述べている。その前段には「冷戦は消えましたが、何千もの(核)兵器は消えませんでした」とある。
つまり、言っていることはこうだ。
冷戦の終結によって核兵器は無用の長物になった。だから核兵器廃絶の音頭を米国が取る。しかし、他国が核兵器を持ち続けるなら、核抑止力は維持する―。
もちろん、オバマ演説が無意味だと言うつもりはない。間違いなく新しい時代に踏み込んだ内容だ。しかし、それにしても演説は米国の核戦略(もちろん抑止論)の枠内で行われていることはきちんと見ておかなければならない。こうしてみると、手放しのオバマ支持は核兵器廃絶に向かうのではなく、米の核抑止政策に乗ってしまうのではないか、との懸念をぬぐえない。オバマは間違いなく、理想主義者ではなく、したたかな現実論者なのだ。
こうした状況の中で最近、被爆地の首長、市民から「オバマ大統領に被爆地を訪れてもらい、惨状を知ってもらおう」との声が上がっているという【注②】。11月中旬の来日の際も訪問を求める声があったが、結局実現はしなかった【注③】。
では、従来の核抑止論の枠内に立つオバマ大統領が広島、長崎を訪れた場合、何を発言するのだろうか。第一の焦点は、原爆投下国の最高権力者として被爆者に謝罪するかどうか。これは極めて困難だろう。謝罪は、これからの原爆投下の全面否定につながる。つまり核抑止政策の現時点での全面転換である。太平洋戦争で死んでいった多くの米国軍人の名誉も否定することになる。
では謝罪抜きだとしたら、どんな発言をするのか。
「惨状を見てとても衝撃的だった」と人ごとのようなコメントを出すのか。それとも、何も言わずに帰るのか。ルース米駐日大使は10月初めに広島を訪れた際、特別なコメントは残さなかった。しかし、被爆地を訪れた米国大統領(個人としてではなくポストとして考えれば原爆投下の当事者である)が謝罪に踏み込まなければ、それはそれで大きな負債を日米間に残すことになるだろう。1974年にフォード大統領(共和)が来日した際にも広島訪問が検討されたが見送られた。このとき「深刻な欠点もある。古い敵意に再び火をつける可能性もある」とホワイトハウスは語っている【注④】。
歴史的和解の一例として1995年にドイツ・ドレスデンであった爆撃50年追悼式典が最近、よく引き合いに出される。ただ、広島とドレスデンでは決定的な違いがある。①通常兵器でなく、核という未曽有の威力を持つ兵器を世界で初めて、しかも一般市民の頭上で爆発させた②ドイツと日本の、その後の戦争責任の追及の仕方の違い-である。
こうしてみると大統領の広島訪問は一時のムードに流されてのことではなく、アジア諸国との歴史問題の解決や真珠湾攻撃に対する日本政府の対応など事実をきちんと積み上げてなされるべきことだと分かってくる。
戦争と平和のすぐれた論考集である「言葉と戦車を見据えて」(加藤周一著)には、こんな言葉がある。
戦争は人を殺す事業であり、死者は決して還らない。(略)ドイツで頻りに用いられる語は「過去の清算」ではなくて、「過去の克服」(と今かりに訳す)である。(略)過去は清算できないが、克服することはできる、―あるいは少なくとも克服しようと努力することはできる。
オバマ大統領の広島訪問を願う声が「過去の清算」を願う声でないと思いたい。
【注①】NIKKEI NET「オバマ米大統領の核軍縮演説内容(全文)から引用。それにしてもこれだけの歴史的演説の全文訳がどこの新聞にも載っていないのはどうしたことだろう。「要約」はメディア側の恣意的な取捨選択が加わり、資料的価値は格段に落ちる。
【注③】8月8日付中国
【注④】9月15日付朝日
2009-10-28 15:29
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コメント(4)
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私はこんなに減ったのか!と思いました。新しい世代に期待したいです。
by 広島ピアノ (2009-10-29 09:22)
確かに、新しい世代に期待しないと未来はないですよね。
by asa (2009-10-29 17:06)
さすがの洞察力。白人同士の痛みは分かるが、東洋の猿では実験動物への同情程度にしか感じない。だからアジアは格好の実験材料になった。個人では、魚はやや平気で殺せるが、ネズミくらいになるとさすがに憎悪なくしては殺せない、と思う。従って殺意を抱くには大変強い憎悪が必要と思うが、相手が猿だとそれほどでもないのかも。
by BUN (2009-10-31 00:24)
BUNさんほど直接的な言い方はしませんが当時、ミサイル開発技術でまちがいなく脅威だったゲルマン民族の頭上でなく、アジア系民族の頭上で「実験的核爆発」をさせたという背景には、民族的な差別感情があると考えるほうが普通だと思いますね。
by asa (2009-10-31 17:21)