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舞台は回る~「山猫」と小沢一郎 [社会時評]

 舞台は回る~「山猫」と小沢一郎

 * 映画「山猫」
 
* 小沢一郎の変遷
 
* 18年ぶりの「与党」幹事長
 
* 役割終わった自民党
 
* 民主党のアイデンティティーとは

 40年ぶりにはなるだろう。ルキノ・ヴィスコンティ監督「山猫」(伊仏合作、1963年)を見た。もちろん映画館にかかっているはずもなくDVDで見た。レンタルで探すのが大変だった。初見は1960年代だったと記憶する。当時はABCスターの競演などと言われたものだった。Aはアランドロン。ルネ・クレマン監督「太陽がいっぱい」(1960年)からわずか3年、貧しいが野心を抱く青年トム・リプレーを鮮烈に演じ、その余熱がさめぬうちの登場だった。Bはバートランカスター。Cはクラウディア・カルディナーレである。イタリアのネオリアリズム全盛のころ「刑事」でデビューしたのを覚えている。哀切のテーマ曲にのって野性味を秘めた美貌が印象的だった。この「山猫」では、新興ブルジョワジーの娘を演じ、はまり役だった。
 昔を思い出して感傷に浸ろうというのではない。民主党の幹事長、小沢一郎が引き合いに出す「変わらぬためには変わらなければならない」というセリフを確かめたかったのである。映画少年? らしきものだった昔には、こんなセリフはとんと記憶に残らなかった。
 イタリア統一へと大きくうねる時代の流れにほんろうされるシシリー貴族の落日の日々。その中で、老貴族ドン・ファブリーツィオとその甥、タンクレーディの間で交わされる。タンクレーディは「現状維持を願うなら変化が必要」【注1】と言い残して統一運動の英雄ガリバルディ将軍の軍隊に参加する。これを受けてファブリーツィオもまた「残るためには少々の変化は受け入れねばならぬ」とつぶやく。この言葉が、小沢一郎という政治家の「お気に入り」であったわけだ。
 小沢は1989年の第一次海部政権下、47歳で自民党幹事長に就任。1990年の衆院選で勝利し「剛腕」と呼ばれた。しかし1991年の東京都知事選で候補者調整に失敗。現職の鈴木俊一に代えてNHK元キャスター磯村尚徳を担いで敗北した責任を取り辞任した。いったんは派閥会長代行に収まったが、総裁選で派閥支持候補を選定する際に宮沢喜一らを事務所に呼びつけたとして再び世論の批判を浴びた。その後の東京佐川急便事件でも対応のまずさが問われ派閥を出た。自民党を離党後、衆院選敗北後の宮沢内閣総辞職を受けて細川護熙内閣を成立させたのが1993年。しかし社会党の連立離脱によって少数与党に転落。細川の後を受けた羽田孜内閣は64日間の短命に終わっている。以降、小沢の有為転変、毀誉褒貶が続く。
 と、こんなふうに小沢の足跡を追っていると面白いことに気付く。小沢は実に18年の歳月を経て、党名は変わっても「与党」の幹事長に返り咲いたのだ。こうしてみると、実は変わったのは自民党なのか、小沢なのか。
 麻生政権下、官邸でこんな会話が交わされたという。

 「ボクは自民党の役割は終わったと思う」
 ジャーナリストの田原総一朗氏は4日昼、首相官邸で首相と面会した際にこう直言した。
 「自民党の役割は三つあった。日本を共産主義国家にしない。欧米並みに豊かな国にする。対ソ連の安全保障。でも、どれも終わっちゃった」(2008125日付読売「混沌政局」)

 199112月、ミハイル・ゴルバチョフが大統領を辞任してソ連は崩壊した。その2年後に宮沢内閣は内閣不信任・解散・衆院選敗北を受けて総辞職した。実はこの時点で、自民党政治の命脈は終わっていたのではないか。その後は小沢自身の「失策」や自社連立による政権維持という「なんでもあり」の政局、そして小泉純一郎という、ある種天才的な手腕を持つ政治家の首相就任によってカンフル剤を打たれながら自民党政治は続いてきた。「自民党をぶっ壊す」と叫びながら党を延命させてきた政治状況は、どう考えても大いなるジレンマである。
 田原が言う自民党の役割は、つづめて言えばこうなる。米ソ冷戦下で日本が生き残るためには①米国と日本が同心円の安保体制を築くこと②安全保障を米国に依存する代わり、経済成長重視の政策をとる③ソ連による共産主義化はなんとしても阻止する―。ちなみに小沢・自民党幹事長が「剛腕」と呼ばれたゆえんは、苦戦が伝えられた90年の衆院選を前に「日本が共産主義の国になってもいいのか」と経団連に乗り込み、選挙資金300億円を引き出したことにあるとされる【注2】。このときの小沢は、自民党のアイデンティティーに極めて忠実だったわけだ。
 これは、自民党の党是というより時代に求められた自民党の「役割」だったのではないか。だからこそソ連の崩壊=冷戦の終結によって、自民党はアイデンティティーそのものをなくしてしまったのだと思われる。このことを明確に指摘した論文がある。そのまま引用する。

 自民党の崩壊とは何を意味するのか、これもまたはっきりしている。日本がやっと、第二次世界大戦(アジア太平洋戦争)とその後の冷戦という二つの戦争の拘束を脱した新しい政治状況に、まともに身をさらすことになったということだ。(略)自民党には歴史的意味づけがあった。それは、戦前の旧体制とつながりを持つ勢力が、戦勝国アメリカに身を預け、冷戦状況に適合することで日本の統治をそのまま継続する、そのために作られた政党だったということだ。(「世界」11月号、西谷修「政治が回復するとき」)

  おそらく、自民党は冷戦の終結とともに新しい党の基盤を模索すべきだった。18年たって、1周どころか数周遅れのランナーになってしまった。そのことがだれの目にも明らかになり、もはやマジックが通用しなくなったからこそ野党に転落したのであろう。そうすると、自民党の谷垣禎一新総裁の言う「みんなでやろうぜ」は何とも陳腐ではある。自民党の役割自体を再定義しない限り党の未来はないのに、「何をやるか」がまったく抜け落ちているからだ。やはり「世界」11月号で、自社さ政権で官房長官だった武村正義は「自民党はいったん終えて、党名も変えて、綱領もまったくゼロから作り直して」と発言している(ジェラルド・カーティス、御厨貴との座談会「『政権交代』の意味はどこにあるか」)。

 もうひとつ、参考になる視点として1020日付毎日「谷垣禎一総裁に聞く」から。

 政治学者の姜尚中さんは総選挙後、コラムで次のように論評している。
 <自民党のアイデンティティーは次の三つに分けられます。利権の再配分による日本型社民主義、小さな政府を志す親米タカ派、戦後のケインズ的な福祉国家の流れをくむ保守リベラル。…谷垣氏の立ち位置は3番目でしょう。…>(「AERA」1012日号) 

 では、民主党にはそれがあるのか、というと、これも首をかしげる。国民は民主党の政策ビジョンに共鳴して票を投じたのではなく、とりあえず「自民党ではダメ」と言っているにすぎないのだ。そんな中で具体的な課題を挙げると①「日米間の対等な関係」は、時代性を考えると正しいが、現実論となると簡単ではない。とりあえずは沖縄の普天間基地移設問題が試金石になる②「自民党が持っていた歴史的拘束を持たない」という「決定的な新しさ」(西谷論文)を持つ民主党にとっては、非核三原則と核の傘の、本来的に持つ矛盾▽鳩山首相が唱える東アジア共同体構想―もその行方が注目される。特に米国のポジションをどう考えるかがカギになる③経済成長重視からの転換をどう進めるか。特に、国民が納得するビジョンをどのように提示するかは難しい。近々明らかになる来年度予算案の全体像に国民は失望するか、期待をつなぐか―あたりではないか。③については、日本型共同体論(つまり古里論)を持つかどうかも、注目点だ。
 鳩山首相がいう「日本が世界のかけ橋に」は正しい選択だと思える。2040年ごろには中国経済が米国と肩を並べ、25年ごろには日本の経済力は「世界第5位にも入らないかもしれない」という見方もある【注3】。日本が大国であり続けるという前提は見直したほうがいい。一方で「アメリカの終わり」を書いた米国の政治学者フランシス・フクヤマはグローバルガバナンスの方法として「重層的多国間主義」を唱え、オバマ大統領もこれに近い路線を打ち出している。

 それにしても、細川政権で小沢とタッグを組み、「腰だめ」で国民福祉税構想を打ち出した斎藤次郎大蔵事務次官(当時)の日本郵政社長は驚いた。小沢と同じく、この人も「変わる」ことで「変わらなかった」人なのだろうか。

【注1】「すべて現状のままであって欲しいからこそ、すべてが変わる必要があるのです」(トマージ・ディ・ランベドゥーサ作、小林惺訳「山猫」)

【注2】当時の朝日新聞が報道したと記憶するが、確かめていない。Wikipedia「小沢一郎」の項で少し触れてある。

【注3】ジャック・アタリ著「21世紀の歴史」


 


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