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現代の幸福な物語~映画「ヴィヨンの妻」 [映画時評]

  

 現代の幸福な物語~映画「ヴィヨンの妻」

 ふーん、太宰治の小説を映像にすると、こんな風になるのか。
 映画「ヴィヨンの妻」(根岸吉太郎監督)。出来としては、まあ悪くはないのだろう。そんな中で主役の松たか子は適役だったか。くるくると居酒屋で立ち回り、生気があってしかもその場の空気に埋もれない、という役を演じきれる芸達者ぶりは得難い。だが何か違う気もする。才能があり、生活に破たんした詩人(もちろん太宰のこと)を演じる浅野忠信は影が薄い。たぶんどこかで荷が重かったに違いない。と、そんなことも頭の中をめぐるが、それはさほどのことではない。
 原作は、太宰にとっても上位の傑作だろう。なにより立て板に水の口上は、真似できるものでない。スピード感がある。彼の作品の特徴とも言えるが、際立っている。詩人を支えて居酒屋の酔客をあしらい、たまたま泊めた若い男に「あっけなく手に入れられ」、それでも翌日はまた「坊やを背負ってお店の勤めに」出ていく佐知が「私たちは、生きていさえすればいいのよ」と言い放つラストに、一気になだれ込む。しかしこれらの道具立ては、活字の世界でこそ生きてくる「良さ」でもある。
 浅野が演じる詩人は、生活者としての妻にとてもかなわない。「こわさ」におびえて震える夫を抱きしめる妻の映像は背後からとらえられ、菩薩のようにも見える。副題「桜桃とタンポポ」の意味が伝わる。桜桃(サクランボ)を口にする詩人と、タンポポ一輪の誠実を生きる妻の構図。いうまでもないが「タンポポの花一輪の信頼が欲しくて(略)一生を棒に振った」(太宰「二十世紀旗手」)という感慨が伏線にある。
 佐知との過去を忘れられない弁護士(堤真一)は、映画上の創作と思える。そのためか、佐知と弁護士との絡みはいやに理屈っぽい。女と心中未遂事件を起こした夫を助けるために弁護を頼む。だが払う金はない。佐知は、街頭の娼婦から「アメリカ製の」口紅を買う。唇を赤く染めて弁護士に体を許す佐知(映像にはない)は、路傍の一輪のタンポポの下に口紅をひそかに捨て、立ち去る。生きるため、ひと時の娼婦と化したことの映像による「説明」は、長い蛇足のようでもある。
 原作「ヴィヨンの妻」は、妻の目を通して語ることで、生活に絡めとられる知識人の図式を描きだしたことに意味がある。だからこそ、書き出しは居酒屋主人の、腹のすわった凄みあるセリフで占められている。そう思えば「生きていさえすればいいのよ」というセリフの反文学性も見えてくる。
 詩人であり思想家である吉本隆明は小林秀雄を「生活者の思想」と評したが、背後には、生活者の思想に敗れ去った近代知識人の膨大な亡骸が積み重なっている。安部公房の「砂の女」もまた、日常性に埋もれていく不条理を描きだして、共通するモチーフを抱えた作品と言える。
 だが映画のラストシーンのセリフは、こうした構図とは明らかに逆のベクトルで語られている。そうしたことにこだわり始めると、この映画は太宰を素材として現代に置き換えたホームドラマのようにも見えてくる。



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