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敗者や弱者への優しい視線~濫読日記 [濫読日記]


敗者や弱者への優しい視線~濫読日記


「映画の木漏れ日」(川本三郎著)


 キネマ旬報に連載の「映画を見ればわかること」20172022年掲載分を中心にまとめた。同欄から6冊目の単行本化という。

 川本三郎の映画評論は読んでいて心地いい。理由は二つある。一つは「あとがき」にある「作品の良し悪しを論じない。よかった映画についてだけ書く」姿勢。「評論とは、読者に感動を数倍にして再体験してもらうものではないか」という信念からきている。読み手は余計な悪罵や批判を目にすることがない。映画の「良さ」を純粋に再体験できる。もう一つは、極私的なことだが、川本と共通の感性土壌を感じることからくる「心地よさ」である。好きな作品が似ていたりする。しかし、視線がまったく同じかといえば、そうではないようだ。プロとアマの差であろう。違いは深さであったり、広がりであったりする。それを知ることもまた「心地いい」。

 松本清張「砂の器」では、原作と映画の違いについて鮮やかに分析(既に知られていることかもしれないが)、参考になった。活字と映像というメディアの差異とともに、松本清張と野村芳太郎というクリエイターとしての感覚の違いが背景にあるように思われる。
 原作では昭和30年代半ばに登場した「ヌーボー・グループ」(「若い日本の会」がモデル)の一員として音楽家・和賀英良を描くが、映画は一切をカットした。その結果、加藤剛が演じる和賀は野心にあふれた文化人ではなく、出生に秘密を持つ悲しい男になった。もう一つ、原作で数行の父子の旅が映画で後半のクライマックスになり、和賀の演奏会と捜査会議をかぶせ、同時進行にした。悲惨な過去を持ちながら栄光をつかみかけた男に捜査の手が迫る。その構図を見事に映像で見せた。試写を見た清張は「小説では絶対に表現することができない」「この作品は原作を越えた」と絶賛したという。
 読む我々にとって、この文章は感動の再体験である。

 「ドライブ・マイ・カー」も、切り口の鮮やかさに舌を巻いた。「チェーホフの劇が静劇といわれるのはよく知られている」で始まり「人の心の動きの静劇」をみていく。
 妻に死なれた男は、ある地方で演出の仕事を請け負う。その間、ドライバーとして雇われた女。二人の「静劇」が進む。一方で男はチェーホフを多言語演劇で上演しようとする。日本語、北京語、韓国語。手話も加わる。最初はぎこちなかった本読みが次第にならされ、なじんでいく。これもまた「静劇」。
 男と女の「静劇」はどのように進んだか。二人の車内での位置に注目する。当初は運転席と後部座席。北韓道の女の生家に向かう旅では運転席と助手席。生家の焼け跡の前では向かい合い、互いの悲しみを語る。二人の位置から「静劇」を読み解く。鮮やかだ。

 「三度目の殺人」は、役所広司と福山雅治の息詰まる法廷ドラマ、ダイアローグだと思っていた(おそらくこれが普通の見方であろう)。
 川本はそこには触れず、風景論を切り口にする。役所演じる殺人犯が死体に火を放つ場所は多摩川の川崎側の河川敷らしい。格差社会で追い詰められ、行き場を失った者たちが行き着く場所。
 福山演じる弁護士は最初の犯行の地、留萌を訪れる。過疎化のあおりで留萌本線は廃線の道をたどっている。こうした街で殺人を犯し、出所後に河川敷に流れ着いた男。二つの地をつなぐ底辺の風景。私には思いつかない視点だった。

 川本は「シェーン」を「優しい西部劇」という。第二次大戦に従軍した監督のジョージ・スティーヴンスが帰国後、ジョン・ウェインが「ギターを弾くように気楽に銃を撃つ」シーンに違和感を持ったという。そこから女性や子供の心情に思いをはせる「優しさ」を西部劇に取り込んだ。
 川本はいつもスクリーンに敗者や弱者の悲しみを見る。それらを浮き彫りにして読み手に感動を伝える。70代後半に達したというが、もっと映画評論を読ませてほしい。心からそう思う。
 キネマ旬報社、3300円。

映画の木洩れ日


映画の木洩れ日

  • 作者: 川本三郎
  • 出版社/メーカー: キネマ旬報社
  • 発売日: 2023/01/31
  • メディア: 単行本



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