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物語を縁どる死生観~濫読日記 [濫読日記]

物語を縁どる死生観~濫読日記


「宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人」(今野勉著)


 宮沢賢治といえば「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」が頭に浮かぶ。童話の作り手=メルヘンの世界の住人と考えがちだが、その思想は深い闇を抱えた死生観に縁どられている。「銀河鉄道」はどこからどこへ行くのか。「風の又三郎」はどこからきてどこへ消えたのか…。
 賢治の実家は浄土真宗の檀家として知られたが、賢治自身は日蓮宗の熱心な信者だった。彼の世界観はその辺に由来するが、そればかりではない。その先を詩論、文学論として究明する方法もあろうが、今野勉はもっと身近な手法によって「賢治の思想」即ち「修羅」の核心に迫った。詩と実生活を重ね合わせ、思想の重要なモメンタムとなった出来事を浮き彫りにした。
 賢治は自身の「詩」らしきものを「心象スケッチ」と呼んだ。心的現象をそのまま文字化したといい、詩としての表現性=自己と他者を言葉で媒介する=を持たない。そのため賢治にしか理解不能な言葉遣いが往々に見られた。今野がとった手法の裏側には、こうした事情もあったと思われる。

 賢治の思想のモメンタムとなった出来事とは何か。
 今野は二つのことを挙げる。賢治が盛岡高等農林学校に入り、知り合った保坂嘉内への友愛。菅原千恵子の研究に基づき、今野はその関係を「恋」とする。もう一つは、妹とし子の恋と死。

 農林学校で賢治と嘉内は文芸同人誌「アザリア」を創刊する。部数は、同人数と同じ12。創刊号の合評会の後、うち4人が盛岡から雫石まで17㌔を夜中に歩きとおした。無意味だが青春のにおいがする。「馬鹿旅行」の1週間後、賢治と嘉内は岩手山に登った。その時の賢治の歌。
 柏ばら/ほのほたえたるたいまつを/ふたりかたみに/吹きてありけり
 「ふたりかたみに」は「ふたりでかわるがわるに」。どのような関係にあったかを暗示する。嘉内はそののち、異性への恋を歌い離れたが、賢治は「岩手山登山でたてた誓いは何だったのか」と悲痛な問いかけをした。
 アザリア5号に、賢治は「心象」を書いた。
  ――私はさびしい、父はなきながらしかる、かなしい。母はあかぎれして私の幸福を思う。私は意気地なしの泣いてばかりいる。
  ――なんにもない。なぁんにもない。なぁんにもない。

 とし子は賢治の2歳下の妹。花巻高等女学校で学業の成績は良く、卒業式では総代として答辞を読んだ。真面目一筋と思われた彼女の「恋愛沙汰」が明らかになった。彼女が残したと思われる「自省録」によって。相手は音楽教師だった。地元紙「岩手民報」が面白おかしく書き立てた。「自省録」は「真偽取り混ぜて」とするが、本当のところはわからない。とし子は追われるように花巻を出て東京の女子大へ進学した。成績が良かったこともあるが、ゴシップからの逃避という事情もあった。
 大学を出たとし子は、なぜか母校の花巻高女の教壇に立った。しかし翌年、結核のため喀血、退職した。宮沢家の別荘を療養所とし、賢治も2階に移り住んだ。
 ――けふのうちに/とおくにいってしまふわたくしのいもうとよ/みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
 賢治の「永訣の朝」である。

 「銀河鉄道の夜」に、架橋演習をする工兵大隊の話が出てくる。「旄」という小さな旗を持ち、朝鮮の兵のようだ。当時、岩手県内には土木工事をする朝鮮人が多かったことから連想したらしい。今野は「架橋」に引っ掛かった。
 天の川西岸に二人の童子を、東岸に兄と妹を住まわせる。これを現実の投影と考えると、西岸にいるのは嘉内で東岸にとし子。その間を行きかうため、橋を架ける。賢治が埋め込んだもう一つの物語。「銀河鉄道の夜」は死者の物語である。
 新潮文庫、800円(税別)。



宮沢賢治の真実 : 修羅を生きた詩人

宮沢賢治の真実 : 修羅を生きた詩人

  • 作者: 今野勉
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2017/02/28
  • メディア: 単行本



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