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小説としては成功、映画は…~映画「月の満ち欠け」 [映画時評]

小説としては成功、映画は…~映画「月の満ち欠け」


 愛する人への思いを抱いたまま亡くなった女性が、何代も生まれ変わって思いを成就させる。一つ間違えばファンタジー(幻想譚)やオカルト話、怪談の類に陥りかねない物語を小説として成立させているのは、佐藤正午の作家としての腕であろう。
 日本にも「真景累ヶ淵」や「番町皿屋敷」といった怪談噺が古くからあるが、それらが現実にどう結びつくかと問われれば、理性的思考をする人間なら否定的な答えを出すだろう。しかしそれは99%の「否定」であって、残る1%はもやもやしたものを漂わせている。幽霊なんていないだろうと答えるのは簡単だが、では幽霊はいないことを立証してみせて、といわれると困惑する。佐藤もそこに立脚して、この物語「月の満ち欠け」を世に出している。ありえないことをあったかのように描いて見せるのが小説だ、という原点に立ってこの小説は成功しているが、ではそれを「映画」という違ったメディアに転写した場合、物語はそのまま成立しうるのか。

 映画では、瑠璃という女性が3代にわたって生まれ変わり、最終的に愛する男性との再会を果たす。生と死を繰り返すたび、命は月のように満ち欠けする。
 初代の瑠璃(有村架純)は正木竜之介(田中圭)の妻として登場する。正木のDVに悩み、精神的に孤独である。そんな折り、雨の日のレコード店(原作ではレンタルビデオ店)でアルバイト学生・三角哲彦(目黒蓮)と偶然出会う。二人は恋に落ちるが、瑠璃は鉄道事故で亡くなる(原作と映画で状況が違うが、大差はない。ただ原作では自殺の可能性をにおわせている)。
 2代目瑠璃(菊池日菜子)は小山内堅(大泉洋)と梢(柴咲コウ)の子として生まれる。ところが瑠璃は、18歳で母とともに交通事故死する。3代目(小山沙愛)は瑠璃の親友・緑坂ゆい(伊藤紗莉)の子として生まれる。名前はひらがなに変わっている。物語の進行の中で「るり」が生まれ変わってきたのは、哲彦と会いたいためだと分かる。

 映画と原作とで、重大な変更点が2か所ある。
 原作ではもう一人、「瑠璃」の生まれ変わりがいる(現世での名前は事情があって「瑠璃」ではない)が、存在は完全にカットされている。それに伴い、彼女と人生が交錯する正木の後半生も、映画にはない。時間の尺の関係で4人の「瑠璃」を登場させるのは困難との判断だろうが、正木の半生が消えたことは、作品の厚みに影響しているように思う。 
 もう一つは、ラストの描き方である。原作では小学生の「るり」がゼネコン大手の総務部長に出世した三角と再会するが、映画では出逢った頃の姿の三角と瑠璃が再会する。映画的処理として、これは理解できないわけではない。都内高層ビルで中年男を追いかけるランドセル姿の小学生、という構図は不気味である。原作通りビジュアル化したら、見るものは引くだろう。しかし、ありえないことが明白である、出逢った頃の二人の抱擁というのは、一気に物語をファンタジーの次元で完結させてしまっている。シーンとして描かず、伝聞として伝えるという方法はなかったか。でもそれでは映画にならないか。難しいところだ。
 2022年、監督・廣木隆一。


月の満ち欠け.jpg


月の満ち欠け

月の満ち欠け

  • 作者: 佐藤 正午
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2018/04/19
  • メディア: Kindle版



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