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対峙すべきものは何か~映画「山 MONTE」 [映画時評]

対峙すべきものは何か~映画「山 MONTE」

 

 久しぶりに骨太の映画を観た。

 中世後期のイタリア。南アルプスのふもとに、その集落はある。険しい山々に陽をさえぎられ、作物はまともに育たない。村人はその地を捨て、出ていくばかりだった。しかし、アゴスティーニ(アンドレ・サルトッテイ)と妻ニーナ(クラウディア・ポテンツァ)、息子のジョヴァンニ(セバスティアン・エイサス=青年時)は踏みとどまる。祖先から引き継いだ土地、墓所を守るためだった。

 定住禁止令が出され、誰もいなくなった荒れ地で一家を待つのは貧困と飢餓だった。わずかな作物を街で売ろうにも、異端者扱いされる中では困難だった。何もかも失ったアゴスティーニらは、ついに山と対峙することを選ぶ…。

 これだけの話である。しかし、ここから解釈しうるものは数多い。アゴスティーニらを苦しめた「山」とは、何であろうか。良くも悪しくも人間の生活に制約をもたらす自然。それは「風土」とでも呼ぶべきものだろうか。すると、ここにあるのは風土と対峙する人間の営みという構図であろうか。

 あるいは、人間社会の外化されたもの。山が産み出した荒れ地にとどまることが異端とされる。このことは、共同体が「山」によって転倒、または畸形化され、荒れ地に広がる影のような新たな疎外者を生み出すことにつながっている、とも読める。

 かくして人間からも自然からも、そして神からも「疎外」された存在であるアゴスティーニとその一家は、自らを転倒されないために、山(とそれにつながるもの)を崩壊させる道を選ぶしかないのではないか。

 つるはし一本で険しい岩山に挑んだところで、山を崩壊させられるのか、といった見方は不要である。巨匠が描いた風景画や花の作品が実際の色彩と違っていたからといってそのことを指摘するだろうか。自分の書きたい色で風景を、花を描くだろう。それが表現というものだ。

 監督、脚本はイランのアミール・ナデリ。伊・米・仏製作。全編イタリアロケがきいている。

山 MONTE.jpg


 

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