叙事詩と悲劇を射抜く力業~濫読日記 [濫読日記]
叙事詩と悲劇を射抜く力業~濫読日記
「アンゲロプロスの瞳―歴史の叫び、映像の囁き」(若菜薫著)
「アンゲロプロスの瞳」は鳥影社刊、2800円(税別)。初版第1刷は2005年3月11日。若菜薫は1956年千葉生まれ。中央大仏文科卒。著書に「ヴィスコンティ―壮麗なる虚無のイマージュ」「聖タルコフスキー―時のミラージュ」など。 |
この書の優れて輝く価値は、次の1行をもって理解されるべきである。
――アンゲロプロスの全作品は、ある意味で「旅芸人の記録」という巨大な叙事詩的作品に挿入された脚注といってよい(略)
アンゲロプロスは、映画監督としての初期に「旅芸人の記録」という孤高にして空前絶後の作品を撮ってしまったが故の悲劇性を背負った存在であった。それは、彼をしても越えることのかなわない長大な尾根であった。そのことを、この1行は見事に言い当てている。
さて、「旅芸人の記録」である。著者もいうとおり、この長編は叙事詩性と悲劇性を二つの水脈として持つ作品である。このことを、著者はエイゼンシュテインとの比較で浮かび上がらせる。これは、納得のアプローチである。むろん、エイゼンシュテインとアンゲロプロスは手法において似ているが、背負った時代性において両極をなす。
あらためていえば、エイゼンシュテインは共産主義が無謬の思想であった時代と体制の中で、手法と思想の幸福な結合をなしえた存在であるが、アンゲロプロスは共産主義の否定の上に叙事詩を成り立たせるという、絶望的な試みに挑んだ作家であった。
このことが、最も端的に映像化されたのは「シテール島への船出」であろう。霧の海に漂う元共産党闘士の横顔に悲劇を見るか、矜持を見るか。
「霧の中の風景」は、著者・若菜が言うとおり、叙事詩とは最も遠い位置にあって抒情性に満ちた作品であるが、しかし、「旅芸人の記録」に最も近い位置にある「脚注」の役割をなしている。
「こうのとり、立ちずさんで」のラストシーンに登場する黄色いレインコートの男たちは何を意味するか。実は男たちは水平移動できない国境を垂直に移動するという超現実的な映像表現につながってはいないか。この書に触発され、到達した理解である。
「永遠と一日」の、かつては詩人であり、作家であった男の深い悲しみと孤独。アルバニアからの難民である少年との出会いに叙事詩の一端を見ることはできるが、全編通じて感じるのは深く完成された抒情の世界である。印象的なのは、いつも暗欝であるアンゲロプロスの「海」が、ここでは輝いて見えることである。むろん、著者もそのことに言及し「眩いばかりに青く輝く」ギリシャの海こそが、老人の「孤独と迫りくる死」をこそ暗示する、と書いている。
「アンゲロプロス好き」には、たまらない一冊であろう。ヘーゲル、ルカーチまで援用する力業であるが、著者の横顔の詳細は不明である。
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