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映像の行間がない~映画「蜩ノ記」 [映画時評]

映像の行間がない~映画「蜩ノ記」


 誠実な人間を描くことで知られる葉室麟の直木賞作品を映画化した。監督・小泉堯史は奇をてらわず、正攻法の映像に仕上げた。つまり、原作も映画も真正面からの作品である。ストーリーの運びも、美しい四季の移り変わりを挟みながら淡々としている。

 と書けば、いいことづくめの感があるが、裏返して言えば、若干面白みがない。特に原作は読んでいて、このテーマと登場人物なら、もっと簡潔にして鮮明な構成に仕立てられるのでは、という思いが常にあった。言葉を変えると、冗漫さとテンポの遅さが気になった。

 2時間ほどの映画だから、原作にあるストーリーのうち、やむなくかなりの部分がカットされている。それはそれでいいのだが、それでもやはり原作を追おうとするあまり、映像で訴えるより説明でカバーするという印象が強いシーンがいくつかあった。

 で、この作品のテーマとは何だ、ということにも若干触れておかねばならない。ストーリーはかなり知られていると思われる。九州のある藩、一人の男(戸田秋谷=役所広司)が7年前の事件で山村に幽閉されている。そこへ、若い藩士(檀野庄三郎=岡田准一)が見守り役として向かう。男は10年かけて家譜を完成させた後、腹を切らねばならない。交流を続けるうち、若い藩士は事件の裏側を知ることとなる…。

 藩命とは何か、それとどう向き合うか、その根底にある武士道とは何か。このあたりが、作品のテーマと思われる。先に公開された「柘榴坂の仇討」も、時代背景はかなり違うが、ほぼ同じテーマである。しかし結末、つまり「藩命」への最終的な向き合い方はまったく逆である。それゆえに、ラストシーンでの夫婦の会話も違ってくる。そのあたり面白いといえば面白い。

「柘榴坂―」では、主人公は「武士」から「人間」へと向かうが、「蜩―」では、武士はあくまで武士たらんとする。そして最期の日、妻(戸田織江=原田美枝子)に向かっていう。「われらはよき夫婦であったと思うが、そなたはいかがじゃ」。これに妻は「さように存じます」と答える。やり取りだけ見れば、きれいごとすぎる。つまり「ウソ」を感じてしまう。原作では、ここに「織江は昨夜泣いたらしく、眼の縁を赤くしていたが」の一文が入っている。このあたりが、映像では伝わらない。つまり、映像に「行間」がない弱みを、この作品は見せてしまっている。惜しい気がする。余計なことだが、松吟尼の寺島しのぶは役不足。

 あら探しをすれば、そうしたこともあるのだが、まずは標準点の映画といってもいい。「柘榴坂―」と見比べるのもいいだろう。原作は、浅田次郎の「柘榴坂―」が短編なのに比べ、「蜩―」は、かなりの長編である。このあたりにも(善し悪しというより)作家の資質の違いが見えて面白い。

 蜩の記.jpg

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