出口のない愛を描く~映画「私の男」 [映画時評]
出口のない愛を描く~映画「私の男」
原作は桜庭一樹。実の親子の愛の交歓というアンモラルなテーマに挑んだ力作で、濃密な心理描写と、才能を感じさせるストーリーテリングが際立っている。
映像化したのは「海炭市叙景」「夏の終わり」の熊切和嘉。佐藤泰志原作の「海炭市叙景」は骨太な映像と構成が印象的で、瀬戸内寂聴(晴美)原作の「夏の終わり」は満島ひかりの陰影ある演技がうならせた。アンモラルという意味では「私の男」は「夏の終わり」に通じるが、決定的な違いは、「夏の―」が女性の自立的自我を描き確かな出口を提示しているのに比べ、「私の男」は、八方ふさがりの「出口なし」を暗示している点だ。
ともに家族を失った20代の男と10歳に満たない少女が出会い、「家族」になる。少女にとって「男」は「おとうさん」であり「私の男」でもあるという、微妙な関係の線上にある。背徳的関係を辛うじて成り立たせるのは、二つの魂が抱えるどうしようもない「孤独」である。桜庭は「出口のない『場』」での魂の振る舞い」をどこまでリアルに描き得るか、という小説的実験に挑んだ、ともいえる(そう言ってしまえば実もフタもないが)。
原作は2007年に出版、翌年に直木賞を受賞した。極めてセンセーショナルな内容を持ちながら映画化されなかったのは、映像化にあたって避けることのできない「隘路」の故であろう。あくまでもこの作品は「文字」による圧倒的な心理描写が成立の前提であるが、一方で「映像」が必ずしも作品の成立につながってはこない、ということである。別のいい方をすれば、二つの孤独な魂による交歓のリアリティーを、映像によって浮き彫りにするのは極めて困難、ということだ。
原作は、時計の針を逆回しするように、娘の「花」が結婚する場面から少女期へとさかのぼっていく。しかも、複数の人物の「語り」によって。これはストーリーテリングの妙であるが、熊切はこの時間の流れを再び逆転させる。「言葉の杜」にうかつに入り込まないという判断であろう。さらに、映像でストーリーを語らせるために、例えば北海の流氷のシーンが重きをなす構成になっている。
タイトルからも分かる通り、二人の関係は「男による少女支配」によってはいない。それではただの性的虐待でしかないからだ。少女による性的支配が前提でなければ、このストーリーは成り立たないのである。その微妙な心理的ひだが描けるかどうかが映画の価値につながっているが、その点はほぼ及第点であろう(要するに、「男」を食って少女は「女」に成長する、その点が伝わるかどうかだ)。ただ、二人の交情のシーンは、グロテスクでやや演出過多だ。逆に、二人が実の親子であるということの示唆(原作はかなり周到な手法でこの点がクリアされている)が足りず、物語として消化不良ぎみだ。
腐野花を演じる二階堂ふみ、腐野淳悟を演じる浅野忠信とも、間違いなく熱演である。
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