世間の空気に抗う~濫読日記 [濫読日記]
世間の空気に抗う~濫読日記
「『自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか』と叫ぶ人に訊きたい」(森達也著)
「『自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか』と叫ぶ人に訊きたい」はダイヤモンド社刊。1600円(税別)。初版第1刷は2013年8月22日。著者の森達也は映画監督、作家。1956年、呉市生まれ。98年にオウム真理教の荒木浩を主人公とするドキュメンタリー映画「A」、2001年「A2」を公開。11年に「A3」で講談社ノンフィクション賞。明治大特任教授。
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実利主義的な文学論に対して「空の空の空を撃つ」【注1】と言ったのは北村透谷だが、森達也もまた「空の空の空を撃つ」かのような活動ぶりである。しかし、ここでいう「空」とは、自由民権運動から脱落し、文学の道にのめりこんだ透谷が見た「近代の奈落」とは違って、一つの実体を伴っているようにみえる。それはなんだろう、と考える。
ハンナ・アレントの研究者である小玉重夫は近著「難民と市民の間で」【注2】の中で鴻上尚史を引用しながら「空気と世間」について絶妙な解説をしている。要約すると、こんなことだ。
・日本人は「社会」と「世間」を使い分け、ダブルスタンダードの中で生きている。
・社会とは近代的システムのことで、「建前」と言ってもいい。
・「世間」とは言葉や動作、振る舞い、義理人情が中心となっている人間関係で「歴史的・伝統的システム」とも呼べる。「本音」。
・「空気」とは世間の変化したもの。
森達也は、ここでいう「空気」に、いつも抗っているように見えるのだ。透谷のいう「空の空の空を撃つ」は、森にとって「『空気』の空を撃つ」ことではないだろうか。彼には「A3」という、結構ヘビーな一冊がある。ここではオウム真理教の麻原彰晃について、一体彼は何者かが詳細に追及されている。森はなぜ、麻原にこだわったか。
ハンナ・アレントによって語られた概念として「忘却の穴」【注3】がある。記憶は表象化され、公共的な意味空間と密接に結びつく。そしてそれは、特定の共同体のアイデンティティーの称揚に結びつく。全体主義の始まりである。
麻原は「忘却の穴」に落ちたのだ。そのことに、森は抗っているのだ。
その「A3」のフィールドを広げたのが、この「自分の子どもが―」である。表題となった一文は、死刑制度の存廃を問うている。遺族の悲しみと憤りを考えたら、死刑制度の廃止などとても考えられない、という声に対して、森はこう反問する。「天涯孤独な人が殺されたら、その犯人が受ける罰は軽くなってもよいのか」
社会システムが生んだ罪刑法定主義と、感情によって動かされる「世間」「空気」とのギャップが、ここにはひそんでいる。そして彼の視線は「領土」「在特会」「タイガーマスク騒動=薄気味悪い善意」「裁判員制度の不思議」に及ぶ。当然、メディアの在り方も取り上げられ、森はここで「表現の本質は欠落」と喝破する。この意見には全面的に賛成だ(そのほかの意見も賛成だが)。表現を「加算方式」だと仮定すると、それは大衆の想像力を奪っていく。「どこまで引けるか」が表現論の本質であろう。
この書の最後の章は「そして共同体は暴走する」である。この中で森は、2001年のNHK番組改編問題を取り上げている。戦時性暴力を扱った番組が自民党国会議員によって改編されたと朝日新聞が報道した問題である。森はここで「思想信条の話にも触れるつもりはない」としながら、「過剰な忖度」のことに触れている。組織共同体が過ちを犯す時に、必ずと言っていいほど付きまとう現象。「A3」でも森はそのことを言っている。この書でも、言いたいことの核心はそこにあるとみている。
【注1】透谷全集第2巻「人生に相渉るとは何の謂いぞ」(岩波書店、1968年)
【注2】現代書館、2013年
【注3】「全体主義の起源」(みすゞ書房、1972年)
「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい―――正義という共同幻想がもたらす本当の危機
- 作者: 森 達也
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2013/08/23
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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