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中上の文体に伍することなく~映画「「千年の愉楽」 [映画時評]

中上の文体に伍することなく~映画「「千年の愉楽」


 紀州の海岸沿いの斜面に張り付くように立つ家並み。その「路地」に生活する男たちにまつわる「血」の呪縛を描いた中上健次のオムニバス風短編集を若松孝二が映画化した。若松はクランクアップ直後に交通事故死したため「遺作」とされるが、もとより若松は自らの「死」を前提にこの映画を撮ったわけではなく、その意味ではことさらに「遺作」とする意味はない。

 登場する男たちはいずれも中本の一統とされ、半蔵(高良健吾)を筆頭に、路地で一、二を争うほどの男ぶりであり、女を狂わせていく。しかし、その血は高貴ではあるが澱んでおり、次々と非業の死を遂げる。十八で大阪から舞い戻った半蔵、闇市で商売を始める三好(高岡蒼祐)、みな若くして命を落とす。その神話的世界の舞台回しをするのが、路地の産婆であり、生まれてきた彼らを親よりも早く抱いたオリュウノオバ(寺島しのぶ)である。

 「また一人、この地から中本の一統の若衆の命を取る事で血の澱んだ中本の血につぐないをさせ」(中上健次「千年の愉楽」から)るのである。

 しかし、中上の文体と若松の映像がコラボすれば、これ以上になくむせかえるような熱気と緊迫感に満ち満ちているかと思えば、そうでもない。むしろ全編のトーンはおとなしめであり、あっさりしている。

 個人的な願望としては原作の中の「天人五衰」の「オリエントの康」こそ、満州からの引き揚げ者という設定の中で中上の縦横無尽な無頼のイマジネーションが発揮されたという意味で映像化してほしかったが、若松亡き後、いまさらかなうことではない。

 なお、ここでいう「路地」の意味を知るには「日本の路地を旅する」(上原善広著、文春文庫)が、タイトルの「千年」の意味を知るには「被差別部落一千年史」(高橋貞樹著、岩波文庫)あたりが参考になるだろう。

千年の愉楽.jpg 

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