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原発は「国策」なのか [社会時評]

原発は「国策」なのか

 昨夜(4月22日)の「ニュースウオッチ9」でキャスターが福島第一原発事故の賠償金負担問題についてコメントしていた。おおむね次のようなことだった。

 「原発は日本が国策として推進してきた。福島第一原発事故の賠償については、第一義的には東電に原因があるとしても、東電だけに責任を負わせるのではなく国民全体で負担すべきだ。原発によって恩恵をこうむってきたのだから」

 今回、政府が検討している電力料金上げ案では沖縄は除外されている。沖縄には原発がないからだ。原発の恩恵をこうむっていないところは値上げをしない―。キャスターの弁と政府案はぴったり一致する。木で鼻をくくったような言い方からすれば「言わされた」感もないではないが、そのことは確かめようがない。

 ところで、ここでの「国策」が気になった。いつ、だれが「国策」と決めたのだろう。手元の辞書で引いてみる。

 こくさく【国策】国家目的を遂行するための政策。


 原発によって遂行される国家目的とはなにか。


 もっとも単純な見方は、日本が経済成長をするためのエネルギー確保であろう。しかし、そのために原発は絶対に必要なのだろうか。むしろ「原発推進ありき」で、そのあとに「原発がないと日本のエネルギー供給はできない」という理屈がくっついてはいないか。気がつけば原発以外にも太陽光とか風力とか地熱とか潮流とか再生可能エネルギーがあるはずなのに、その利用法は脇に追いやられてしまっている。

 高度経済成長の時代ならともかく、はたしてこうした考え方は必要なのだろうか。高齢化が進む日本の産業構造が今以上に拡大するとはとても思えない。それどころか、生産コストを考えて企業は海外展開を進め、国内産業は空洞化が著しい。むしろ安全と快適さと将来に負荷を残さないことを優先させたダウンサイジングこそ今の時代の風向きにあってはいないか。

 一方、もっとも政治的な見方は「核開発技術の潜在能力を維持するため」であろう。少し分かりやすく言うと、被爆国である日本は非核三原則を国是としており、もちろん核兵器を製造することはできない。しかし、日本の技術力をもってすれば、核兵器の製造はそれほど難しくはないだろう。万一の場合を考えて、つまり安全保障上の理由から原発を持ち続け核兵器製造能力を潜在的に維持する、という考え方である。この見地からすると、なぜ日本がプルサーマルや高速増殖炉に固執するのかとか、米国の思惑が背後にありそうなこととかもよく分かる。しかし、当然のことながらこんな考え方が国民の前に明らかにされ、是非を問われたことなどない。それよりも、冷戦が終わって20年以上がたついま、日本が率先して「核」を放棄することにこそ意味がありはしないか。


 原発=国策とすることで、怖いのは原発に否定的な考えを示す人たちが「国」の外側へ押しやられてしまうことである。逆に言うと、原発が「運命共同体」の踏み絵になってしまうことである。そういう押しつけがましさを「国策」という言葉は持っている。福島第一原発事故をうけて、いましなければならないことは国策としてではなく、わが身に引きつけて「原発は本当に必要なのか」と、掛け値なしの議論をすることであろう。

 毎日新聞3月26日付の「時代の風」で加藤陽子・東京大教授が「原発を『許容』していた私」を書いていた。そこでは大岡昇平の次の言葉が引かれていた。

 「(昭和)十九年に積み出された時、どうせ殺される命なら、どうして戦争をやめさせることにそれをかけられなかったかという反省が頭をかすめた、(中略)この軍隊を自分が許容しているんだから、その前提に立っていうのでなければならない」

 加藤は大岡の文章に対して「同時代の歴史を『引き受ける』感覚、軍部の暴走を許容したのは、自分であり国民それ自体なのだという洞察」と書く。そして「戦争」を「原発」に読みかえれば「私の言わんとするところがご理解いただける」という。

 高木仁三郎は著書「原発事故はなぜ繰り返すのか」で「『我が国』という発想」ということを書いている。つづめていうと本来は「公」と「私」があって激しくぶつかり合うものなのに(高木氏はここで私小説作家を例に挙げている)、技術者の意識では「公」だけがあってそれをそのまま「我が国は」と、1人で背負っているかのような言い方をする、と指摘している。そこから議論なし、批判なし、検証なしといった状況が生まれるという。「原子力は社会に貢献するのか。はたしてそのメリットとデメリットは」といった議論より先に「原発建設を進めるには」を言う技術者意識を批判しているのである。


 もう一つ言えば、内橋克人は最近の著書で「一定の条件を満たせばだれでも小規模発電所を開設できる」という、1978年に成立した米国の法律を紹介している。巨大電源で垂直的に電力を供給するという社会的枠組みへのこだわりが「原発がなければ電源供給はおぼつかない」という発想にわれわれを縛りつけることになってはいないか。福島原発事故の背景に東電の体質があり、電力寡占状況がそのことに加担しているのでは、ということは容易に想像がつく。だれでも電力会社を始められるというのは、社会全体のセキュリティーを考えても合理的なことだし、想像しただけでも楽しい。

 朝日新聞4月21日付に、ある世論調査結果が載っていた。各国の世論調査機関が加盟する「WIN―ギャラップ・インターナショナル」が3月下旬から4月上旬にアジア、欧州、北南米、アフリカで実施したもので全体では原発賛成が49%、反対が43%だったという。日本に限れば反対47%、賛成39%である。世論調査がすべてだとは思わないし質問の仕方にもよるが、少なくとも「国策」などという威圧的な言葉がまかりとおるような数字でないことは確かだ。


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