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電気料金上げより先にやるべきこと [社会時評]

電気料金上げより先にやるべきこと

 福島第一原発事故で多額の賠償金支払いが必至となったことを受けて、全国電力会社の値上げが検討されているという。最近では住民への支払総額が7兆円から8兆円に上るとの情報が(意図的に?)流され、東電1社ではまかないきれないとの見方が当然のごとく出始めている。海江田万里経済産業相は19日の会見で、被災者賠償について「第一義的には東電負担」としながらも「国の支援も免れない」として「税という形か、電力料金という形か」と述べている。どのような形かはともかく、最初から「国民負担」を押し付けるのはあまりにも安易ではないか。

 東日本大震災は基本的に「天災」だ。だから被災者への支援を全国民で負担しようというのは理解できる。しかし福島原発は間違いなく人災である。人災であるからには原因と、負うべき責任がある。まずそこを明確にしなければ「だれが負担するか」という議論は出てこないはずだ。それらをすっ飛ばして「東電をつぶさない→全国民で負担」というのはおかしくはないか。こんなことを言う海江田と民主党政権は間違いなく政治家能力、あるいは政権担当能力がない。

 福島原発に対する東電の対応は、いまだにあいまいな部分が多い。まずこれらをはっきりさせることが先決だ。そうした不透明な情報開示の中でさえ、東電が初期段階で原発への海水注入に抵抗したことは明らかだ。そこには「廃炉=膨大なコスト」へのためらいがある。事故を招いた防災基準の甘さも問われるべきだろう。「想定外」などという言葉が安直に使われるが、本当に「はじめから想定になかったこと」なのか。
 評論家の柳田邦男氏は言う。「想定外」とは「本当に想定できなかった」ことのほか「想定できたが、コストなどの諸条件から切り捨てたこと」までいくつかのランクがある。「コストをにらんだ」結果が、今日の事態を生んだのではないか。報道では「災害の諸条件を考えると原発など作っていられない」と言い放った原子力専門家がいると聞く。一方で浜岡原発をモデルに、福島事故の正確なシミュレーションと予測を行った地震学者がいることは、既に多くのメディアで報じられた。その地震学者によれば、斑目春樹氏(現・原子力安全委員長)はこの学者のことを「原子力学会では聞いたことがない」と切り捨てたという。権威主義そのものだ。そして「天下り」による東電と官僚のなれあい関係は、いまさら言うまでもない。

 今の日本の「原子力」をめぐるズブズブの関係が見えてくる。そもそも、今回の東北沖の地震は「史上空前」のものではない。新聞で報じられているが、津波対策で貞観地震(869年)を考慮に入れるべきだ、との主張は、なぜか無視された。背後に「コスト」意識があったことは推測できる。なぜそうなったのか、だれが判断を下したのか。こんな無責任体制のしりぬぐいを国民に押し付けられてはたまったものではない。かつて戦争へと突入した天皇制「無責任体制」は、こうした形で生き延びているのか。あの戦争と同じく、結局泣くのは庶民だけなのか。

 今日のエネルギー供給を支えるため「原発は不可欠」という。本当にそうなのか。再生可能エネルギーの選択肢はないのかを、日本は本当に検討したのだろうか。30年、40年のスパンでもう一度見直してみる必要はないか。過疎地に巨額のカネを流し込んで巨大な電源を作り、そこから都市の需要を満たすという構造は変えようがないのか。もっとフラットな供給体制はないのか。情報社会はパソコンの進化によって急速にフラット化した。エネルギー供給システムは旧態依然でいいのか。ひょっとして「原発=不可欠」は利権にあずかる一部企業の宣伝ではないのか。われわれは知らぬ間に「洗脳」されていたのではないか。そんな疑問がわく。

 目先のことで終わらせてはいけない。少なくとも「原子力」をめぐって風通しのいい体制と議論が保証されなければ、国民負担の強要などできないはずだ。政府はこういうときには都合よく「国民の理解」を呼び掛けるが「原子力の見直し」を政治家がメッセージとして発信しない限り「国民の理解」など得られるはずがない。ドイツはすでに1930年代の「脱原発」を目指している。この目標は福島の事故で早まるかもしれないという。ドイツにできることが日本にできないのはなぜか。ある被災住民が言った「殺風景な男」(菅直人のこと)を代えないとできないのか。それとも、代えてもできないのか。


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