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幻視の共同体に殉じる美しさ~映画「最後の忠臣蔵」 [映画時評]

 幻視の共同体に殉じる美しさ~映画「最後の忠臣蔵」

 最近の時代劇はおしなべてできがいい。突出した作品はなくとも、そこそこのレベルが並ぶ。そして、それぞれの作品の共通項は「人間」である。「義」と「情」のかっとうの果てに、人間のアイデンティティを探る。

 これは何を意味するか。現代社会の中では人間の深淵が見えにくく、描きにくくなっているのではないか。現代、もっと直截に言えば「現在」を背景に置くと、ドラマが希薄に流れるのである。そこで「時代劇」という額縁をはめる。すると見えてくるものがある。

 逆に言えば人間の深淵が、現代劇では描ききれない。これはしかし、映画論の範ちゅうを超えていると思われる。そしてもう一つ、興味深い最近の傾向。切腹シーンが重要な位置を占める。「十三人の刺客」も「桜田門外の変」もそうだった。そのものずばりのタイトルの作品が、かつて小林正樹監督によって世に出たが、それとは明らかに意味が違っている。最近の作品では「義」と「情」と「生」と「死」が一つの座標軸で語られる。そのなかで「切腹」という行為が意味を持ち始める。とすれば、最近では「必死剣鳥刺し」も同じ範ちゅうに入れてもいいかもしれない。

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 枕が長くなったのは「最後の忠臣蔵」の、映画としての位置関係を描きたかったからである。

 吉良邸討ち入りから16年。大石内蔵助の隠し子、可音(桜庭ななみ)は美しく成長した。父・内蔵助の命を受けて瀬尾孫左衛門(役所広司)が育て上げたのである。この間、孫左衛門は討ち入りを目前に逐電した不忠者とのそしりを受ける。同じく、家臣の家族に討ち入りの模様を伝えるというひそかな使命を帯びた男がいる。寺坂吉右衛門(佐藤浩市)である。瀬尾と寺坂は、一度は剣を交えるが、最終的にお互いの立場を理解する。そうした中で可音は孫左衛門にひそやかな思いを寄せる。が、自らの出生の秘密を知り、ある豪商のもとに嫁いでいく。琴平町の金光座で演じられるお初・徳兵衛の曽根崎心中の人形浄瑠璃が間に挟まれる。このシーンは単なる様式美の表れなのか、といえば違うようにも思う。もっと深い意味があるとすれば、可音よりもっとひそやかな孫左衛門の思いの通奏低音ととれなくもない。孫左衛門とともに可音を育てた遊女上がりのゆう(安田成美)もまた孫左衛門に寄り添うが、武士の義は捨てきれぬまま、ドラマは終わる。そのとき、孫左衛門の瞳に映ったものはなにか。自らが命を賭して守ろうとした共同体は見えていたのか。

 可音が婚礼に向かうシーンと婚礼そのもののシーンは予定調和的な大団円に見えて蛇足の感が強い。むしろこのシーンはないほうが、映画としての品格を上げただろう。桜庭ななみの演技は幼いが、好感が持てる。役所広司の演技力はいまさら言うまでもない。佐藤浩市も同様だ。竹林の静謐、ススキのなかの殺陣、幼い子を抱えて雪山を越えるシーン、いずれも職人芸が光る美しさだ。監督・杉田成道。


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