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あらかじめ失われた恋人たちの物語~映画「ノルウェイの森」 [映画時評]

 あらかじめ失われた恋人たちの物語~映画「ノルウェイの森」

 断っておけば、村上春樹とは同年代である。そんなわけで、1960年代後半を過ごした大学キャンパスではほぼ同様の「洗礼」を受けた。しかし、それがどのように体内に蓄積されたかを覗いてみれば、おそらく大きく違っていたにちがいない。

 原作は1987年に発表された。映画化を機会に、読み直してみた。実に20数年ぶりの再会である。ワタナベの親友キズキはある日突然、自殺してしまう。彼の恋人だった直子とワタナベはその後偶然出会い、付き合い始める。しかし直子は恋人をなくしたことでの喪失感を埋められないでいる。そして心と肉体のかい離の中で、直子の精神は蝕まれていく。そんなとき、直子とは対極の女性である緑が現れる。しかしワタナベは、直子との「込みいった」事情を清算しない限り、一歩を踏み出すことができない。緑はそれを見守っている。

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 京都の療養所で暮らす直子を、ワタナベがときどき訪れる。そこにはレイコという年上の女性が同居している。療養所を一歩出れば山肌が広がる。風にそよぐ不気味な草原。まぎれもなく直子の心象風景だろう。このあたり、うまく映像化している。

 「ノルウェイの森」は、村上文学の中では比較的ストーリーが単純で分かりやすい。しいていえば、ラストあたりでなぜレイコとワタナベが寝るのかに寓意があるのかもしれない。直子の心を埋めることができなかったワタナベと、7年前の喪失体験(具体的に何かはわからない)を持つレイコとの、出発のための「儀式」だと見ることもできる。

 総じて映像的には成功しているが、キャスティングが今一つ意図が分からない。菊地凛子の「直子」はどうみてもぴたり来ない。原作にある透明感がなさすぎるのだ。むしろ緑役の水原希子のほうが直子のイメージに合うし、緑を菊地が演じたほうが落ち着く。レイコの霧島レイカも美しすぎる。ワタナベを演じる松山ケンイチも少し違う。もう少し「体温」が低いはずなのだ。

 さて、同時代を生きながら世代体験としては違和感をぬぐえない村上春樹。あのころの大学には熱い政治の風が吹き荒れていた。けだるく繊細であらかじめ失われたかのようなこの人間模様はなんだろう。あの時代にストリートを抜けた風の温度がこんなに違うものなのかとあらためて思う。ただ、村上が描こうとした生きることの「困難さ」のようなものはよく分かる。監督・脚本はベトナム出身のフランス人トラン・アン・ユン。

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ノルウェイの森  上下巻セット (講談社文庫)

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  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/11/05
  • メディア: 文庫





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コメント 4

鍼原神無〔はりはら・かんな〕

こんにちは。はじめまして。
ご挨拶、遅くなりましたが、Drupal.cre.jpとのTBありがとうございます。

アタシは、春樹氏より概ね2回りほど下の世代になります。
ちょうど、団塊世代と団塊jrの間にあたるでしょうか。

>けだるく繊細であらかじめ失われたかのようなこの人間模様はなんだろう。あの時代にストリートを抜けた風の温度がこんなに違うものなのかとあらためて思う。

言われてます面、原作にあたる小説については、物語が10年以上過ぎたあとの作中人物の回想であること、が大きいと思われます。
今度の映画については……どうなのでしょう。形式上は、やはり回想形式と思えるのですが……。

共通した物語について言えば、高校生時代に、親友に突然自殺され、そして自殺理由を考えても説明できない。小説でも、映画でも、この背景は共通と言えると思いますが。
「けだるく繊細であらかじめ失われたかのような」感覚のルーツは、アタシはそこ「自殺理由を考えても説明できない」がゆえに、囚われてしまう、点がルーツかと思いますです。
by 鍼原神無〔はりはら・かんな〕 (2010-12-26 10:46) 

asa

≫鍼原神無〔はりはら・かんな〕 さん
貴重なコメントありがとうございます。
確かに、原作では30代半ばにさしかかった主人公の回想の物語として展開されています。映画ではそこが取っ払われていました。
ただ、私はブログにも書きましたように、村上春樹とは体験上、決定的に違うようなものがあるように思えてなりません。そのために村上文学の真面目な読者とはいいかねるかもしれません。
誤解なきよう念押しをしますが、それは村上春樹の作品を認めないという意味ではありません。
鍼原神無さんに取り上げていただいた部分ではこんなことが言いたかったのですが、うまく言えませんでした。

by asa (2010-12-26 11:02) 

クマネズミ

asaさん、わざわざコメントをありがとうございます。
原作を十分に理解された上で映画をご覧になって、この映画の長所や抱える問題点を的確に指摘されているなと感服いたしました。
特に、「風にそよぐ不気味な草原。まぎれもなく直子の心象風景だろう。このあたり、うまく映像化している」といった点は同感です。
ただ、こうした抜群に著名な原作を映画化すると、仕方のないことですが、原作が何処までうまく映画に取り込まれているのか、ということをどうしても問題視したくなってしまいます。
ですが、映画を一個の作品として捉えた場合、映画を制作する出発点は原作にあるにしても、出来上がった映画は原作とは独立したもの、敢えて言えば無関係のものと考えてはどうでしょうか(なかなか簡単にはできませんが)?
たとえば、「菊地凛子の「直子」はどうみてもぴたり来ない」とか、「ワタナベを演じる松山ケンイチも少し違う」というのは、この映画それ自体から、映画の展開の中から受ける印象としてなら、そういう見方もあるのかと思いますが、そうではなくて「原作にあるもの」とは違う、「原作ではこうなっていたはずなのだ」という観点から述べられているのであれば、それはなにか違うのではないかな、と思っています(原作と同じであるなら、極言すれば、敢えて映画化する必要などないのではないでしょうか)。
そういうこともあって、私は、原作の残りかすのようなものはもっと切り離してしまったらどうか、またこの映画の菊地凛子は、この映画の登場人物を演じる俳優として、実にはまり役ではないのかと思っているところなのですが。
何か酷く書生っぽいつまらないことをダラダラ申し上げて、恐縮です。
なお、同じような趣旨のことは、『ゲゲゲの女房』に関して、「京の昼寝」さんのブログ(12月14日)にもコメントいたしておりますので、お手数でなければお読み下さい(尤も、cyazさんに簡単にあしらわれてしまいましたが!)。
by クマネズミ (2010-12-26 22:30) 

asa

≫クマネズミさん
コメントありがとうございます。そして私の雑駁な見方にきちんとこたえていただき、これもまたありがとうございます。
私としては、物語として成り立つためには、菊地凛子の「直子」は少し違うな、と思った次第です。ただ、菊地の演技力は私は認めていますし、そうした観点からの指摘ではありません。
村上春樹の感受性については、書きましたように若干の違和感を持ちます。しかし、その文学性まで否定するものではありません。そのことが、映画を見る際に思考のしっぽとしてあったかもしれないな、ということは感じています(平たく言えば、村上文学の通りにできているかどうか、とする見方のことです)。
でも、やっぱり「ノルウェイの森」という原作は一つの世界観の表現ですから、この原作と独立させて映画だけを見るというのは、ずいぶん困難な作業だと思いません?
いずれにしても興味深いコメントでした。
by asa (2010-12-26 23:48) 

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