孤独な魂は奈落に沈む~映画「悪人」 [映画時評]
孤独な魂は奈落に沈む~映画「悪人」 |
福岡と佐賀を結ぶ山中の峠で、事件は起きた。偶然ともいえる成り行きで、建設解体業に従事するある青年、祐一(妻夫木聡)が殺人を犯す。さらに偶然ともいえる成り行きで洋服屋店員のある女性、光代(深津絵里)と出会う。ともに平凡で退屈な生活。ぎこちない男と女の関係。きっかけは出会い系サイトであったり、メールであったりする。出会い、そのまま別れれば何でもない、平凡な風景。しかし、男の「殺人」告白によって2人の魂は別次元へと飛ぶ。
女は「私、待つよ、何年でも」と言う。30年生きてきて、やっと自分を愛してくれる男と出会ったのだ。深津の思いつめた末のふっきれた表情がぞくりとさせる。このときの光代の心象風景を原作から引いてみよう。
祐一は灯台で私を待っている。絶対に待っている。これまでの人生で、そんな場所があっただろうか。私を待っている人がいる。そこへ行けば…、そこへ行きさえすれば、私を愛してくれる人がいる。そんな場所があっただろうか。
2人は手に手をとって逃避行を続ける。ラブホテルを転々とし、ある岬の灯台にたどり着く。そこは未来が広がる場所ではない。「海を前にして生きていると、どこにも行き場所がないという感じになるよ」と祐一がいうとおり、どん詰まりの場所なのだ。しかしそこは、やっと手に入れた自分たちだけの場所。コンビニに買い出しに出た光代は警官の職質に会う。やっとの思いで灯台に戻ったころには、警察の大包囲網が敷かれている。
仮想の軽さと、真実の重さ。このことを吉田は、被害者の父親にこんな風に語らせている。
「今の世の中、大切な人もおらん人間が多すぎったい。大切な人がおらん人間は、何でもできると思いこむ。(略)失うものもなければ、欲しいものもない」
つくづく、吉田修一は才人だと思う。原作は、シーンと会話が重ねられて流れていく。理屈や概念による説明は一切ない。そうする中で、人間が根源的に持つ闇が、背後に広がっている。吉田作品は一見、映画にしやすい素材に見えるが、実はそうではない。言葉で語りきれぬものをどう映像化するかが問題だからだ。そうした視点で見れば、「悪人」は大岡昇平の「事件」(野村芳太郎監督で1978年に映画化)に匹敵する。現代日本の風景を切り取って、近年になく骨太で重厚な作品だと見た。「普通の女」を演じきった深津の演技は、確かに「賞」に値する。妻夫木も新境地を開いたと言えるだろう。監督は李相日、脚本は李相日、吉田修一。
2010-09-17 21:46
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