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「立ち上がって」どこへ行く? [社会時評]

「立ち上がって」どこへ行く? 

 「日本」とは「日出づるところ」すなわち「日の本」からきている。しかし、この呼び名は根本的な矛盾をはらむ。日本にいる限り「日本」は「日出づる」ところではない。日本より西の国から見れば、つまり日本を東に見る国からすれば「日出づる」が、ハワイから見れば「日沈む」国になる。

 これは別段、思いつきを書いているわけではない。「日本の歴史 『日本』とは何か」(網野善彦著)によると、936年の「日本書紀」の講義で参議紀淑光が講師に「太陽は国の中から出ないではないか」とただしたところ、講師は「唐から見て日の出づる東の方角だから『日本』というのだ」と答えたという。これについて網野は「唐帝国にとらわれた国号であり、真の意味で自らの足で立った自立とは言い難いともいうことができる」と付記している。つまり「日本」という国名には、もともと「他者」の視線がひそむ。

 ところでこの「日本」に「立ち上がれ」とかぶせた新党名が4月10日、スタートした。この国の名に負けず劣らず、この新党名「立ち上がれ日本」も、落ち着きの悪さが気になる。意図的かどうかは知らないが、ここにも「他者の視線」がひそんでいる気がしてならない。

 この新党、自民党を出た5人の国会議員で構成する。背後に石原慎太郎東京都知事が控える。結党の際の会見でも長広舌をふるっていた。どうも石原の命名らしい、と聞いて半分合点がいった。「アンドレ・マルロオのごとく」と本人が思っているかどうかはしらないが、石原は政治家であり、文学者でもある。サルトルはアフリカの飢餓を前にして「文学に何ができるか」と問いかけたが、この問いには鋭く内包した「反文学性」を見てとれる。視点を変えていえば、つまり文学者は永遠に時代の同伴者なのだ。

小説家・石原慎太郎が、この「立ち上がれ日本」を命名し、一方で政治家としてコミットする。この党名には、そうした「政治と文学」を峻別できないために生じた「ねじれた」関係がひそんでいるのではないか。難しい言い回しになったが、同じことを「近聞遠見」の岩見隆夫は、さすがにもっとすっきりと言っている。

「立ち上がれ、わが日本よ、の意味は分かるとしても、だれがだれに号令をかけているのか、傍観者的な言い回しに聞こえる」(4月10日付毎日新聞)

そうなのだ。だれがだれに言っているのか。

 政党名は普通、こんな風にはつけない。この国をどんな形にするか、どこへ導くか。どんな集団で政治を担うか。「へたりこんだ日本は情けない。立ち上がるべきだ」というのは文学的スローガンとしては成り立っても、政治的な「旗」としては成立しないのではないか。ちょうど、市ヶ谷で自衛隊の決起を促した三島由紀夫のアジテーションが「文学」ではあっても「政治」ではなかったように。その点、天谷祐吉「CM天気図」の「『平成保守党』とでも名乗ったほうが、その政治的ポジションがよくわかるし、大人の風格が感じられてよかったんじゃないだろうか」が的を射ている(4月14日付朝日新聞)。

 しかし、それにしても出てくる党という党、「第三極」狙いだ。まずは第一極を目指すべきだ、といま言うつもりはないが「第三極」を作ってどうしようというのだろう。もともと小選挙区制は国民の意思にバイアスをかけ、政権交代を起こりやすくするためのシステムのはずだ。それに逆行するぐらいなら制度を変えたほうがいい。5月上旬に投票がある英国総選挙では、第三極ができたばっかりに「ハングパーラメント(宙づり議会)」の懸念が高まっている。この英国の議会体制を見習ったのが日本であることを思えば、英国政治の現状は明日の日本かもしれない。

 もとはと言えば、永田町の定見、哲学、戦略のなさがすべての誤算の始まりなのではないか。いまさら言ってもせんないが、あの核サミットでの屈辱的な「日米首脳会談」はなんなのだ。しかし、長くなってしまったのでこの話は次回。


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