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壮大な無駄遣いが始まった~冬季五輪開幕 [社会時評]

 壮大な無駄遣いが始まった~冬季五輪開幕

 バンクーバーで冬季五輪が始まった。日本時間の13日、開会式の一部を見た。所用のためすべてを通して見ることはできなかったが、3時間近いショーではなかったか。なぜこんなに過剰な演出がいるのだろう。なぜ歌手が入れ替わり立ち替わりステージに立ち、感極まった表情で歌を歌う必要があるのだろう。あの聖火台はなんなのだ(うまく動かなかったらしいが)。アフリカはじめ世界では多くの人間が今も貧困にあえいでいる。五輪が開かれている北米大陸の南、ハイチでは20万人が震災で死に、それを上回る人たちが家もなく途方に暮れている。こんなことに使う金があれば回せばいいのに、と思う。

 開会式のもようを伝える翌日の新聞の片隅に本の小さな記事を見つけた。「壮大な無駄遣い」という見出しで、バンクーバー市内で数百人がデモしたことを報じている。参加した学生は「不況の中で巨費を浪費し、環境を破壊する五輪を拒否する」と話したという。まったく同感だ。その隣にある、開会式のファンタジーに感激する寄稿文など、違和感が募るばかりだ。

 「ここはロドスだ。ここで跳べ」という言葉がある。もともとはだれかが作った寓話だが、マルクスが引用して広く知られるようになった(断わっておくが、私はマルキストではない)。「ロドス島で、だれにも負けない跳躍をした。嘘だと思うならロドスで聞いてみよ」とホラを吹く男がいた。それを聞いて「論より証拠だ。ここで跳んで証明してみてくれ」と言ったところ何も言えなかった、という話だが、マルクスは「論より証拠」に力点を置いて「議論はもういい。今ここで跳んで(決起して)みろ」と扇情的な話に仕立てている(マルクスは引用文にエモーショナルな色をつけるのがうまい。そこがエンゲルスと違っている。―これは蛇足)。

 こんなエピソードを持ち出したのにはもちろん、わけがある。スポーツとは本来、そうしたものだろう。四の五の言わず、持っている力の証明をすればいいのだ。理屈ではなく、どこででも跳んで見せればいいだけの話なのだ。

 だが、現実はそうはならない。五輪は純粋な理念と力の大会ではなく、商業主義と政治に翻弄され続けている。歴史的な節目はいろいろあるが(例えば1936年のベルリン五輪)、今の五輪の姿を決定的にしたのは1980年代だったと思われる。80年のモスクワ五輪は冷戦下、西側各国がボイコットして五輪が政治と無縁でないことを証明した。84年のロス五輪は100%民間資金で開き「五輪がもうかる」ことを証明した。モスクワに行けなかった日本選手の落胆ぶり、ロスで黒字を出したユベロス委員長の得意満面は今でも記憶に残る。

 前振りが長くなった。ここからが本題だ。2020年夏季五輪開催の可能性を探る招致検討委員会が11日、回目の会合を開いて広島市単独開催を決めた。既存施設を使って建設費はできるだけ安く上げ、事業費は国の支援や世界からの寄付金で賄うという。収支見通しがまとまるのは早くても今年の夏。これって本当に「基本計画」の名に値するものなのか。東京都がまとめた2016年夏季五輪の事業・運営費は合わせて約7000億円だった。これに招致費1500億円が上乗せされる。これより小規模にするとしても「寄付で賄う」ですむ話なのか。ちなみに、広島市が最近出した新年度予算案の一般会計は約5900億円だった。

 もうひとつ、このニュースを報じた12日付朝日新聞は「『選手の視点不足』の声」としてJOC幹部の懸念を伝えている。言われてみれば確かにそうで、五輪の主役はなんと言おうとアスリートたちである。分散開催にすればいいだの、平和の理念があればみんな納得するだの、聞こえてくるのは開催者の論理ばかりだ。選手が競技をしやすい大会とは、といった視点は皆無なのだ。このことをついた朝日は、五輪問題にきちんとした視点を持っていると言ってもいいだろう。

 ところで、各紙のこのニュースの扱い方はどうだったか。前述の朝日は社会面に本記が2段扱い、地方版に解説風記事をやはり2段。読売は社会面に本記2段、地方版にやや詳しい記事を3段見出しで掲載。毎日はすべて地方版扱いだった。日経新聞は、というと掲載なし。もし五輪開催となると地元経済にも影響があるのだろうが…。つまり実現可能性ゼロとみているのでしょうね。だから「掲載の要なし」。総じて一歩引いた扱いで、「マユツバ」で見ていることが分かる。

 地元地方紙は、というと、これが一面トップと破格の扱い。3面に関連の詳報と解説。ということは、本日の最大のニュースと位置付けているわけだ。収支の見通しさえ明らかになっていない方針案を。いったいどんな物差しを当てたら、こんなことになるのだろう。せめて解説記事に「実現性は限りなくゼロ」と書いてあれば分からないでもないが、それもない。垂れ流し報道で読者を惑わすものというほかない。

 だいたい、こんな検討委を開くこと自体が「無駄」に思えるのだ。冒頭の寓話に戻ろう。「オレはロドス島でならどんな五輪選手にも負けない跳躍ができるのだ」というホラ吹き男の話だった。この口調、だれかに似ていないだろうか。五輪開催を叫ぶ、どこかの市長に。

 映画「インビクタス 負けざる者たち」をめぐるある批評にあったが、スポーツと政治的なプロパガンダが結び付けばどこか不気味なのだ。たとえそれが「反アパルトヘイト」という普遍的な正義であるとしても。

  
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BUN

全ては壮大な無駄に違いないが、我々は生きているから明日からも生きていかねばならないからやっかいには違いない。災害は常に起こるのに人為的にも起こしているのだから、まったく救いがない。今日キアヌ・リーブスの「地球が静止する日」を見た。唯一笑えたのが宇宙人が人類から地球を守るためにやってきたという下りだ。チェンジ流行りだが生物が進化できるのはきっとその数が激減する何かが起こった後だろうね。
by BUN (2010-02-15 23:07) 

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