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天皇の代替わり騒動をどう見るか~三酔人風流奇譚 [社会時評]

天皇の代替わり騒動をどう見るか~三酔人風流奇譚

 

「天皇」というバーチャルな存在

松太郎)ふう。5月4日の一般参賀をもって一連の天皇代替わり騒動はひとまず落ち着くのだろうか。

竹次郎)4月1日の新元号発表から数えれば、1カ月余の騒動だった。

梅三郎)いったい、何だったのだろう。

松)年月日という時間の概念があり、さらにそこに世界共通の西暦というものがあるのだからわざわざ「元号」などという屋上屋を設ける必要はない。

竹)明治から昭和にかけては欽定憲法があり、天皇が統帥権を持った時代だったので、元号が一定の重さを持ったという事実はある。しかし、象徴天皇制になって平成に入ると元号は一気に軽くなった。

梅)例えば、昭和の時代の史実は昭和年で覚えていることがよくある。日米開戦の日、あるいは敗戦の日などは代表例だ。それらは、天皇制の負の部分を表す史実だから。平成に起きたことで、平成年で覚えていることはほぼない。

松)それなのに世の中は「新しい時代が始まった」などと浮かれる。

竹)天皇は、憲法で書かれているとおり象徴的存在、つまり抽象的な存在なのだから、新時代と旧時代を分けるような力もないし、そういう存在であってはならない。

松)元号に関しては、若い層の浮かれぶりが目立つ。

梅)天皇制の負の部分を知らないこともあると思う。今の天皇は、いわばバーチャルな存在であって実体を持たない。ある程度以上の年齢層だとそこでバーチャルとリアルを区別しないと気が済まないが、若い層はバーチャルとリアルが入り乱れることに抵抗がないのでは。それが、天皇制への無頓着な反応にもあらわれている。

竹)ネット社会で鍛えられているから。

梅)天皇? 夢があっていいんじゃない? みたいなノリだ。

松)それでいいのかねえ。三上太一郎「日本の近代とは何であったか」で天皇が神格化されたのは明治以降の近代であって、国民国家建設に不可欠な官僚制を整備するための精神的なバックボーンとしての「神」の存在が求められたからだ、と説く。欧米にはキリスト教という公共社会の精神的バックボーンがあったが、日本にはそれに類似するものがなかったので、無理やり天皇を「神」に祭り上げた、という。そのために国民は「現人神」の名のもとに徴兵され、突撃させられた。そういう歴史は無視できない。

 

底抜けメディアの「同調圧力」

竹)それにしても、この間のメディアの底抜けぶりはひどかった。

松)憲法記念日の5月3日、テレビキャスターの金平茂紀さんが広島市内で講演した。「崖っぷちの民主主義 改元・三権分立・沖縄・マスメディア」と題して。やはり、改元問題の垂れ流し的な報道ぶりに違和感を持っていた。ただ、金平さん自身そのメディアの内側にいる身なので忸怩たる思いもあるようで、「私は少数派」と言っていた。事前の宣伝では「抗(あらが)うニュースキャスター」と紹介されていたが、いまどきこんな形容詞がつけられるのは、この人ぐらいだ。

  

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竹)骨のありそうなキャスターが一斉にやめていった(やめさせられた?)時期があったから。その結果が、今のメディアの惨状だ。

梅)ネットを見ていると5月1日、東京で天皇制に反対するデモがあったらしいが、新聞、テレビとも報じなかった。広島市内でも4月29日に小規模だが天皇制に異議を唱える集会が開かれた。新聞、テレビとも全く報じなかった。

松)少数でも、こうした声があることはきちんと報じるのがメディアの役割ではないか。それなのに、テレビは「列島はお祝い一色」と連呼する。そうすれば、天皇制や元号に違和感を持ったり、批判的な考えを持ったりする人たちの口を封じることにつながる。いわゆる「同調圧力」だ。かつて、戦争を止められなかった一つの要因として批判されてきたこと。同じことを今のメディアはしている。

竹)そこまで行かなくても、今回の代替わりは、天皇自身が高齢で務めを果たせなくなったことと皇室全体の高齢化が要因としてあった。それなら、天皇制を廃止するというのも一つの選択肢として考えられるべきだ。そうした選択肢を残していくためにも、天皇制廃止を求める声があることは、事実としてどこかに残しておくべきだろう。たとえ少数であっても。

 

ユデガエル状態の国民意識

梅)元号が変わることで時代が変わるわけでもなく、文字通りバーチャルな世界で代替わりが行われたが、世の中ではこれに合わせて時代の回顧が行われた。そして「平成は戦争もなくいい時代だった」という感慨があちこちで示された。

松)本当にそうだろうか。世界で戦禍は収まってはいない。アフガン、イラク、シリア、南米ベネズエラ…。ヨーロッパは極右勢力の台頭で揺れている。

竹)「平成」という時代があったとすれば、それは米ソ冷戦が終結した後の30年だった。そこで日本はポスト冷戦の時代へ向けた針路を示すことはできなかった。それが沖縄問題の混迷を招き、北東アジアでの存在感のなさにもつながっている。一方で少子高齢化は進んだが、それに見合う経済システムを作ることもできなかった。30年を回顧すれば「漂流の時代」としか呼べない。

梅)北方領土問題も、一時の勢いはなく宙づり状態だ。そう考えると、平成は平和でいい時代だったというのは一国平和主義、もしくはユデガエル状態の国民意識を表している。

松)よく言われることだが、一人当たりGDPは、30年前は世界一だったが今は20位以下。これは、もう一度世界一に戻すべきだという議論ではなく、少子高齢化社会に合わせた違う経済システムや経済意識を求めるべきだ、と考えたほうがいい。それがなされないから、日本は漂流している。

竹)いつまでも成長戦略一辺倒ではないはずだ。

梅)それではこの辺で。きょうも明るい話にはなりませんでしたね。


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