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戦後思想をきちんととらえるには~濫読日記 [濫読日記]

戦後思想をきちんととらえるには~濫読日記

 

「さらば、民主主義 憲法と日本を問い直す」(佐伯啓思著)

 

 安倍一強独裁の昨今の政治を見ると、何とかならないかと思う。しかし、考えてみればこの政権、我々の投票結果を受けてできた。嫌ならこうした政権ができないような投票行動をすればいい。しかし、なかなかそうはならない。なぜだろうか。あるいは、米国でトランプという異形の大統領が生まれた。これは民主主義の危機だろうか。あるいは民主主義だからこそ生まれた大統領だろうか。

 こうした疑問の背景を探ったのが、この書である。その結果、これまで当然とされてきた概念が、懐疑の対象とされる。民主主義はいつも正しい結果を生む、という前提でいいのか。そもそも民主主義は「主義」なのか「体制」なのか。自由主義と民主主義は同列なのか。議会主義と民主主義は。欧米では一般的に語られる共和主義はなぜ日本で語られないか。共和主義の前提である「公共」の概念は、欧米と日本で共通のものなのか。なぜ日本で「公共」は重んじられないか。

 答えはここで書くより読んでいただくほうが早いだろう。

 こうした基本概念へ洞察は、必然的に戦後民主主義といわれてきたものへの懐疑へと向かう。戦後思想はアジア・太平洋戦争への反省から民主主義、護憲主義、平和主義を三位一体とした。それは正しかったのか。民主主義(民主体制)は民を重んじることであるから、そのまま平和主義へと結びつくものではない。護憲主義は戦後思想の基軸の一つであったが、そもそも戦後憲法が生まれるに至った主権の問題がある。これをどう解決するかは、今なお大きな問題である…。著者はこうして、戦後思想を外側から見る。もちろんそれはあるべき姿であろう。戦後思想(戦後体制)をアプリオリに善ととらえる思考からは、未来は必ずしも見えてはこない。

 興味深いのは「公共」に対する考察である。著者は、近代国家論の源流である英国では王権と議会が支配・被支配の関係にあり、そこから王権=私的権力、議会=公共という概念が生まれたとする。しかし、日本では必ずしも天皇が支配者として存在しなかったため、英国のような王権と対峙する「公共」の概念が生まれなかった。日本ではイエ(=ヤケ)が積み重なり、オオヤケの概念に結び付いたとする。オオヤケとは天皇で、それ以外はすべて私的なものという理解である(江戸時代の幕府は公儀、つまり公の代行者)。ここでは、公と私が水平ではなく垂直の関係にある。

 歴史的には、オオヤケに対するこの説明はよく分かる。しかし、今日の日本的「公共」に対する説明としては通用するだろうか。戦後70余年たつ。短い時間ではない。その間に作られた「公共」の概念はないだろうか。たしかに、欧米に比べ「公共」への意識は薄いが、だからといって無視できるほど軽くもない。例えば「自由な言論空間」は、公共空間へのリスペクトがなければ成り立ちにくい。私的な「イエ」の積み重なりの頂点に「オオヤケ」があるとする発想は、そのまま現代に適用するとすれば危険である(もちろん、著者がそう思っているとは思わないが)。

 護憲派と呼ばれる人たちのように戦後を一面的に肯定、擁護するのでもなく、あるいは安倍晋三首相のように戦後を一面的に否定、無化するのでもなく、戦後をきちんととらえ直す、という意味で、刺激的かつ価値ある一冊である。

 朝日新書。760円(税別)。


さらば、民主主義 憲法と日本社会を問いなおす (朝日新書)

さらば、民主主義 憲法と日本社会を問いなおす (朝日新書)

  • 作者: 佐伯啓思
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2017/05/12
  • メディア: 新書
 

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