豊饒とも思える日常の深淵~濫読日記 [濫読日記]
豊饒とも思える日常の深淵~濫読日記
「セカンドハンドの時代『赤い国』を生きた人々」(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著)
ソ連は1917年の革命で誕生し、1991年に崩壊した。よくも悪しくも、20世紀の壮大な実験であった。この「赤い時代」に生きた人々の肉声を拾い集め、一つの「帝国」の相貌を浮き上がらせたのが、この書である。
「セカンドハンド」とは「お下がり」の意味である。誰かが使い古した思想や社会システムを後生大事に守ってきた。そんな国家に付き合った(付き合わされた?)人々に20年間インタビューを重ね、出来上がった書は600㌻にもなった。
著者のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチはこれまで、「原発」や「戦争」をテーマにいくつかの著書を出し、2015年にノーベル文学賞を受賞した。ウクライナに生まれ、ベラルーシで育った彼女は「私には三つの家がある」と語る。三つ目の家とは、もちろん「ロシア」である。そうした彼女が「ユートピアの声」シリーズの完結編として、「ソ連崩壊」をテーマに選んだのは、それほど不思議ではないだろう。
「チェルノブイリの祈り」にしても「戦争は女の顔をしていない」にしても、彼女の書の構成には特徴がある。決して特別でない普通の人たちが語った言葉を、具象のままに我々に提示する。体系づけたり、意味づけたりすることは極力避けられている。だから、全体を通して抽出されるイメージはない。いずれも、時代の転換とともに露出した岩盤、地層のようなものが、ごろりと目前に転がっている。「セカンドハンドの時代」も例外ではない。
こうした「聞き書き」へのこだわりを、作者はこう語る。
「わたしをいつも悩ませていたのは、真実はひとつの心、ひとつの頭のなかにおさまらないということ。真実はなにか細かく砕かれていて、たくさんあり、世界にちらばっている。それをどうやって集めればいいかということ」(訳者あとがきから) そして尋常ならざる営為によって集められた「真実」のかけらは、読む者にとって廃墟を訪れた思いを抱かせる。そこで作者はこういう。「廃墟のうえで永遠に生きたい人などいない。これらの破片でなにかを建設したいのです」(同)
そんなわけで、ここに集められた声の主は一見、弱者であり敗者であるかのようだ。しかし、そうだろうか。ある朝、窓の外には戦車。ゴルバチョフに抵抗する国家非常事態員会がクーデタを起こし、エリツィンが通称「ホワイトハウス」に立てこもる。そして民はこういう。
――おい、みんな、思想がどうしたって?人生は短いんだ。さあ、飲もうじゃないか!
あるいは、こんな証言。
――あなたも教わったでしょ、覚えていらっしゃる? 秘密の話をしなくちゃならないときには、2、3㍍電話機からはなれる、受話器から。
――わたしたちは信じていました、いまそこに…わたしたちを民主主義にのせてってくれるバスが外にもう止まってるって。(略)そんなものはなかったのです。
――共産主義って禁酒法のようなものよ。アイデアはすばらしいんだけど、機能していない。
――でも、ほんとうに、こんなことを書いても大丈夫なんですか?(略)こんなことを話しても…。こんなことがあったあとで、どうやってしあわせな人間になればいいのかしら。
途方に暮れていても、したたかな民の声である。
本当は、こんなふうに一行を抽出することさえためらわれる。全体をそのまま全体として受け止めるしかないのである。ドストエフスキーのような、豊饒とも思える日常の深淵。まぎれもなくここには文学の淵源がある。(岩波書店、2700円=税別)
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