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「幸せ」のかたちを考える~映画「そして父になる」 [映画時評]

「幸せ」のかたちを考える~

映画「そして父になる」


 「幸せ」のかたちを考える。映画のほとんどのテーマは、この言葉でくくることができる。「幸せ」のかたちとは、もちろん「不幸せ」のかたちでもある。その多くは家庭を舞台としている。

 日本社会は戦後、まず経済的なパイを増やしその分け前にあずかることと、分配されたパイを分かち合う喜びを家族の中で見出すことで「幸福」感を醸成してきた。パイの大きさと家族の充足感を保証するものの一つは社会的ステータス=社会的エリートであることの自己覚醒=であった。

 しかし、日本は高度経済成長期から脱し、この構図=経済的豊かさと家族間の充足感という連立方程式=に変化が生じ始めた。平たく言えば、いい大学を出ていい会社に入って、給料もよく、高級マンションに美人の奥さんと子どもがいれば幸せ―という図式への懐疑である。

 ここまで書けば分かると思うが、こうした「幸せの方程式」を正面から問うたのが、この「そして父になる」である。

 大手建設会社に勤務する野々宮良多(福山雅治)と妻みどり(尾野真千子)はある日、難問を投げかけられる。息子の慶多(二宮慶多)が、病院の取り違えによって実は他人の子であったというのだ。実の息子琉晴(黄升げん)を6年間育てた町の電気屋斎木雄大(リリー・フランキー)・ゆかり(真木よう子)夫婦と会い、今後どうするかを話し合う―。

 息子の取り違え、という設定を提示することで、一気に「家族」は崩壊の瀬戸際に立つ。これまで「幸せ」と信じてきたものが倒立する中で、家族や幸せの意味を考えざるを得ない状況が生まれる。そう見れば、この映画はある意味でテーマを正攻法で攻めた、とも言える。片やエリートサラリーマン、高級マンション、高級車。片や裏びれた商店主。もちろん、家族の「幸福」はこうした一つの物差しで測れるはずなどないのである。だからこそ、二組の夫婦のあいだで葛藤が生まれる。

 「勝ち組」をまとってきた良多は当初、一つの物差し=経済的豊かさと社会的ステータスという尺度=でのみ、問題の本質を見ようとする。当然、そこにはこぼれ落ちたものがある。あえてそれを見ない生き方もあるだろうが、良多の「誠実」がそうした選択を許さない。映画の作り手の視線がそのあたりにある以上、結論を示さない映画の結末は最上であったと思われる。「あなたならどうしますか」という問いが、観る者の心に錘を下ろせばいいのである。

 監督・是枝裕和に拍手。普通の夫婦の心理の綾を細かく描いている。個人的にはリリー・フランキーの水が流れるがごとき演技にも拍手。第2の笠智衆になれるかもしれない。

 ただ、直近のデータ(201346月期、総務省統計局)から非正規雇用が雇用者全体の3割強という社会構造を見れば、現実はもっと奈落が深く、エリートサラリーマン対商店主という構図はやや牧歌的では、と思われなくもない。

そして父になる.jpg 

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