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戦中派の心情と死生観~濫読日記 [濫読日記]

戦中派の心情と死生観~濫読日記


「おかしゅうて、やがてかなしき 映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像」(前田啓介著)


 いきなりだが、極私的記憶をたどる。映画「肉弾」を見たのは、当時いた大学構内での集会だった。後に歌手・加藤登紀子と結婚した藤本敏夫氏がメーンスピーカーで、映画はその一環だった。今思えば、なぜこの二つがセットだったか不思議で、記憶の混線があるかもしれないが確かめようがない。19681012日公開。藤本氏は当時、赤ヘル部隊2000人動員可能といわれた同志社ブント指導者として知られた。しかし、一大学のリーダーが他大学で講演会とは考えにくい。ネットで調べると、68年に反帝系全学連の委員長。この肩書での講演と思われる。この年の国際反戦デー(10.21)で六本木の防衛庁に突入、翌月逮捕。69年6月まで拘留され、運動から離れた。すると「肉弾」を見たのは6810月と特定できる。記憶が正確ならば。

 

 半世紀以上も前に見たきりだから、覚えている場面は少ない。このときデビューした大谷直子の初々しい雨中の全裸とラストのドラム缶に残された白骨体ぐらいだ。しかし、この二つこそ、岡本喜八が込めたメッセージが濃厚に伝わるシーンだったように思う。

 岡本喜八(本名・喜八郎)は1924(大正13)年2月、米子市に生まれた。昭和の年と年齢が同じ世代である。アジア・太平洋戦争の始まりを16歳で、終戦を20歳で迎えた。青春期を戦火のもとで過ごした彼らは「戦中派」と呼ばれた。そうした世代の心情はどのように形成されたか、丹念に探ったのが「おかしゅうて…」である。

 1943(昭和18)年、明治大学専門部を卒業した喜八は東宝に入り、助監督になる。かねての映画好きが選んだ道だった。この年10月には、神宮外苑で徴集学生2万5千人の雨中の壮行会が行われた。いわゆる「学徒出陣」である。早生まれの喜八は「送られる側」でなく「送る側」だった。このころ戦況は悪化、戦地に向かった多くの若者が散った。喜八にとって、生年が70数日違うことで生じた運命の分岐だった。この書で何度も触れているが、結果として同学年の半数の死を目の当たりにする。このことが彼の死生観、人生観を形成した。生死が紙一重であったこと、理不尽な死を強いられたものの無念。「なんのために死ぬのか」を問い続けた。その延長線上に喜八の映画があった。けっして天才肌ではなく、助監督15年というキャリアからもわかる職人肌(アルチザン)の感覚があいまった。

 

 そうはいっても、戦争もしくは戦争体験を描いた西部劇調の「独立愚連隊」や戦中派の独白「江分利満氏の優雅な生活」、そして「日本の一番長い日」「肉弾」へと続く作品群は、つながるようでつながらない部分もある。「日本の一番長い日」と「肉弾」はほぼ同時期で、監督自身も語るように【注】、戦争遂行の仕組みを俯瞰したのが「日本の…」とすれば、一個人の視点で戦争を見つめたのが「肉弾」といえる。では「独立愚連隊」「江分利満氏の優雅な生活」「血と砂」、あるいは時代劇としての「吶喊」「赤毛」や「侍」はどんな位置にあるのか。

 この問いの答えをいちいち書く余裕がないが、書の中で「赤毛」(「肉弾」の翌年製作)の一幕が紹介されている。幕末、幕府側の武士が「一矢報いて死にたいのだ。葵は枯れゆくときでも美しくありたい」という。これに対して元旗本武士・半蔵(高橋悦史)は「死ぬのに美しいも醜いもありますか」とつぶやく。「吶喊」では土方歳三(仲代達也)に「理屈に合わないものへ歯向かいてえだけよ」と言わせる。このあたりに「戦中派」喜八の本領がありそうだ。

 そういえば「肉弾」は主人公の「あいつ」(寺田農)が「なんのために(誰のために)死ぬか」の問いを胸に少女(大谷)と出会い「これで死ねる」と叫ぶ映画だった。

 

【注】「あれ(「日本の一番長い日」=asa注)には庶民が出ないだろう、じゃ俺の体験から、庶民の側の戦争というか敗戦を描きたい」と考え、「肉弾」に着手していた(「キネマ旬報」1983年1月上旬号)という。(307P

おかしゅうて、やがてかなしき 映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像 (集英社新書)

おかしゅうて、やがてかなしき 映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像 (集英社新書)

  • 作者: 前田 啓介
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2024/01/17
  • メディア: 新書

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