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病原菌には文明を滅ぼす力がある~三酔人風流奇譚 [社会時評]

病原菌には文明を滅ぼす力がある~三酔人風流奇譚

 

松太郎 4月も間近。毎年この頃にはプロ野球が始まり、Jリーグもたけなわで心躍るが、今年はシーズン開幕の見通しさえ立たない。

竹次郎 最新の数字(3月29日現在)で全世界の感染者64万人、死者数万人超。これからアフリカ、中東がどうなるか。コロナウイルスよ、宇宙のどこかへ行ってくれ、という気分だ。世の中全体、盛り上がらない。

梅三郎 今回のコロナウイルスがもたらしたものは何か。地球上の最強の生物として君臨した人類が築き上げた文明がいとも簡単に崩壊しかねない、ということだった。

松 確かに。ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」には、スペインがなぜあれほど簡単にインカ帝国を滅ぼしたか、という考察があるが、要因としてタイトルにもある「病原菌」の存在が大きいとしている。ユーラシア大陸の家畜からヒトに移った10種類ほどの伝染病【注】が新大陸に伝播し、亡くなった人数は銃や剣によって殺された人数をしのぐ、と書いている。背景として新大陸にはほとんど家畜がおらず、似た病原菌がなかったため耐性がなかった、という。今日の状況と似ている。

竹 経済評論家・内橋克人の言だが、災害はそれに見舞われた社会の断面を一瞬にして浮上させる。病原菌についても同じことが言え、同時に一つの文明を滅ぼす力があるということだ。侮ってはいけない。

梅 侮ってはいけないのだが、日本での検査数の少なさをみると、侮っているとしか見えない。

松 安倍晋三首相は、28日の会見でも検査の促進を訴えた。それなのに検査の数は増えない。背景にどんな力が働いているのか。検査を進めて実態を把握することが第一歩だろう。

竹 疫学的に、一定の地域でサンプル調査をして潜在的な感染者がどのくらいいるか調べるべきだ、と主張する学者もいる。例えば東京の場合、この1週間で陽性化率は10倍になったが、奇妙なことに検査数はほとんど変わっていない。陽性化率が上がったということは感染者の絶対数が上がったということ。なのに検査数が増えないのは、どこかでせき止めているということになる。

梅 日に万単位の検査をしている国から見れば、日本は不思議な国と映るだろう。公表された感染数の100倍ぐらいは潜在的にいるのでは。

竹 ただ、日本での致死率は3%ぐらいで、全世界の平均5%と比べてもそう高くない。イタリアは10%ぐらい、スペインは7、8%ぐらいだ。

梅 医療崩壊が起きた国とそうでない国とで単純な比較はできない。医療崩壊が起きていない国としては、日本はむしろ高いほうだ。ドイツなど1%を切っている。背景には、日本での潜在的感染者数の多さがあるように思うが…。死後、あるいは重症化した後に感染が判明した数が多いのではないか。

松 そこは医学者でないので断定はできない。ただ、いえるのは日本では社会が合理性ではない何かによって動く、という不気味さだ。だれもが「やりたくない」と思っていた戦争を止められなかったあの時代と同じ空気だ。

 

強権発動を望む若者たち

 

竹 小池百合子知事が突然、首都封鎖をちらつかせた。ありうる措置だろうか。

梅 日本には強権を発動するための法的根拠がないので、強制はむつかしい。

松 官邸も、その辺りは慎重だ。しかし、それは「非常時には、やはり強権発動のための体制がなければ」というための布石にも見える。

竹 憲法に緊急事態条項がいる、という例の…。

松 「コロナ後」にはその主張が強まるかもしれない。

梅 テレビで都内のどこかの繁華街にたむろする若者へのインタビューがあり「強制でないということはそれほど深刻ではないということ。僕らに判断をゆだねるというのは無責任だ」という声があった。そう思っているとしたら、深刻に受け止めなければならない。外出禁止なのに外を出歩いて体罰を加えられたり、拘束されたりする外国の映像が流されているが、そういう国を望んでいるのか。強権的に規制されるより、行動はそれぞれで判断せよという方がよほど成熟した、ましな国のはずだ。

 

ご免こうむりたい悪夢のシナリオ

 

松 そうそう、オリンピックも延期になった。

竹 来年夏の開催が有力だが、結構な賭けだ。日本はともかく、世界をみるとそれまでに終息しているかは微妙では。

梅 既に言われていることだが、首相の任期が来年月に切れることと大いに関係がありそうだ。

松 首相は、自分がいる間にやりたいだろう。しかし、開催できなかったら退陣もある。

梅 逆に言うと、開催できたらもう一期ということになりかねない。コロナ禍克服と五輪開催の功績で…。

松 そうなると悪夢だ。そういうシナリオはご免こうむりたい。

竹 しかし、今回のことでつくづく思うが、日本人のなんと従順で忍耐強いことか。

松 公文書改ざんで自殺した近畿財務局職員の遺書に対する国会での対応ぶりをみても、これは人としてどうなのか、という気分になる。検察は手を付ける気はないので、民事に頼るしかないが…。

梅 東京高検のトップは、例の官邸お気に入りの人物だから。「桜を観る会」もそれっきりだし。

松 オリンピック関連では、聖火リレーがあるのかないのか。

竹 あれはギリシャとゲルマンのつながりを強調するためヒットラーが始めたもので、いまだに続いている。いい機会だからやめればいい。

梅 そういえば、ヒットラーは初の聖火リレー後、ベルリンからギリシャへ、まったく逆コースをたどって電撃侵攻をした。五輪開催の年後だ。聖火リレーは侵攻のための下調べだったのではともいわれる。

松 沢木耕太郎は「オリンピア ナチスの森で」で、その説に否定的な見方を書いている。ナチスは当時、世界最高水準のインテリジェンスを持っていたので、わざわざそんな回りくどいことをする必要はなかったという。私もそう思う。

 

消費税ゼロこそ最も効果的

 

松 コロナ禍はヒト自体にも痛手を与えるが、経済を弱らせ最終的に文明崩壊につながりかねない、ということを今回学びつつある。経済対策をどうするかも大きなテーマだ。

竹 米国は経済対策に200兆円を超す巨額をつぎ込むらしい。日本の予算の年分だ。日本も、28日の会見で首相がリーマンショック時を上回る規模と明言したので、事業規模56兆円以上は確実。ドイツの90兆円と同じ規模になるのでは。単年度の国家予算並みだ。

梅 それにしては、中身がお粗末だ。お肉券とかお魚券とか…。自らの支持基盤をにらんだ、完全に利権がらみの思惑だろう。そんな話、このタイミングでするか、という感じだ。

松 そもそも、経済対策なのか困窮者救済なのか。そこをはっきりしないと迷走する。どちらかをとるか、あるいは二択にできないなら両方を、意図をはっきりさせて対策を打つ。経済対策としてなら消費税をゼロにするのが最も効果的なのは分かっている。しかし、財務官僚が反対することも分かっている。そこで、官僚の代弁者にすぎない麻生太郎財務相が早々と否定して盛り上がらなかった。

竹 それにしても、ケンカ腰の猿のような顔で記者を威圧する麻生は、ニュース映像が流れるたび不愉快になる。どうにかならないものか。

梅 まあ、その話は置いといて、まず消費税をゼロにする。それが無理なら5%にする。2018年度の消費税収入は20兆円弱だから、その後の税率アップ分を計算にいれても不可能な額ではない。その上で、飲食店や観光業など困窮している人には状況に応じて現金、いわゆる真水を配る。もともと単純な話なのに、自民党内の事情で複雑なことになっている。

松 消費税を上げた時もいろいろ救済策が取られたが、ほとんど効果はなかった。消費税は消費のブレーキだから、ブレーキを外せば車の速度は上がる。ぜひそうしてもらいたい。ただ、財務官僚は再引き上げのことを考えて反対する。

梅 そこは、初めから期限を切っておけば問題ないのでは。

 

【注】インカ帝国とアステカ帝国を滅亡に導いたのは、ヨーロッパでローマ帝国時代に猛威を振るった天然痘とされている。J・ダイアモンドはこのほか、新大陸への「とんでもない贈り物」として、以下の伝染病を挙げている。麻疹、インフルエンザ、チフス、ジフテリア、マラリア、おたふく風邪、百日咳、ペスト、結核、黄熱病。

 


文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)

文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)

  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2012/02/02
  • メディア: 文庫

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難解だが刺激的な一冊~濫読日記 [濫読日記]

難解だが刺激的な一冊~濫読日記

 

「敗者の身ぶり ポスト占領期の日本映画」(中村秀之著)

 

 GHQ占領直後の日本映画と日本社会を、精緻な分析で追究した。戦後史の中でこの50年代は、著者の言葉を使えば「奇妙に不鮮明な時代」といえる。映画論であるこの書では、具体的には194956年を対象とし、根拠としては、日米合作で業界内組織としてスタートした映倫が第三者機関に衣替えするまでの時期とした。

 タイトルは「敗者の身ぶり」。「敗者」はむろん、敗戦国日本の国民を指す。難解なのは「身ぶり」である。映画の持つ「昼」と「夜」の概念が背景にある。「昼」とはこれまでに文字化されたり、概念として確立されたりしている部分だが、「夜」はいまだ「闇」として宙づりになっている部分である。そこを言語化するのが狙いらしい。著者の言葉でいえば以下のようになる。

 

 ――歴史の昼とは、言論や行動、必要や目的が支配する領域である。(略)歴史の夜とは何なのか。それは言論や行動によって表されることなく、必要や目的から解き放たれ、その前提としての直線的な時間とは異質な時に満たされて、さまざまな同一性が解体される、ほとんど伝達不可能な領域である。(略)歴史の夜はそれぞれに異質な無数の断片のように生まれては消えてゆく。

 

 これはフロイトの無意識下の世界を指すのか、と思ったが、著者はベンヤミンに論拠を求める。残念ながらいまだ立ち入ったことがないベンヤミンの世界に関する言及はここまでにしておきたい。政治的、社会的な位置づけの部分を「昼」の部分とし、無意識下にあるとされてきたスクリーン上の振る舞いの部分を「夜」としてその部分を解き明かそうとした、というのが我が理解である。

 

 映画の話に戻そう。監督としては黒澤明、小津安二郎、谷口千吉、成瀬己喜男。このほかプログラムピクチャーから「二等兵物語」が取り上げられた。すべては追えないので主要なものをピックアップする。

 

 小津作品では「晩春」「麦秋」を取り上げ、原節子が演じる紀子(2作品に共通する役名)について論じた。ここで「抵抗と代補」という言葉が用いられる。紀子は家族の中で不在の人物の代わりを務めている。それは母であったり次兄であったりする。ただ、二つの作品で紀子の生きざまは対照的である。「晩春」では勧められた結婚より父と暮らしたいと願っている。「麦秋」では、周囲の抵抗を押し切って結婚へと向かう。そうした展開の中、紀子の「身ぶり」の意味が詳細に論じられる。

 そして、有名な「麦秋」のラスト。大和に引っ込んだ老夫婦が、他家の嫁入りの一行を眺めている。麦畑の穂が揺れている。何気なしにこのシーン、ただ日本的な風景と捉えていたが、著者は途中に挟まれた次兄からの手紙と一本の麦穂のエピソード―徐州から紀子の結婚相手の謙吉に送られた手紙を、紀子が「頂戴」とねだる―を絡ませ、中国戦線で散った兵士たちの魂の生まれ変わりと解釈する。

 

 黒澤作品では「生きる」「七人の侍」「生き物の記録」を取り上げ、3作に共通するテーマとして自己と他者、問いと代行をあげた。「生きる」は余命を知った地方公務員の主人公が市民の代行に命を燃やし、不衛生な下水溜りを公園に整備する。「七人の侍」は、農民という他者のために武士たちが野武士と闘う。しかし、「生きものの記録」はこのテーマにはまるのか、正直よく分からなかった。鋳物工場の経営者が原水爆の恐怖から逃れるため海外移住を計画。家族に断られ工場に放火、精神病院に入れられる。前2作では問題の所在、当事者、代行者がはっきりしているのに比べ、「生きものの記録」では主人公自体が問題の所在であり、当事者(家族)の要請を受けた代行者(裁判所)によって葬られる。3作を同じカテゴリーで論じることに無理があるといえそうだ。

 

 成瀬の「なつかしの顔」と「浮雲」の分析も面白い。「なつかしの顔」は戦中(41年)の30分余の短編。中国戦線のニュース映画に長男が写っているという知らせが届く。母はスクリーンに涙し、見逃してしまう。妻がその後、見にいくのだが、ためらった挙句に引き返す。様子を聞こうとした弟に責められ、こういう。

 ――なんだか観たくなかったの。観なくてもいいような気がしたの。兄ちゃんは大勢の兵隊さんといっしょにお国のために働いているんでしょ。あの写真(注:映画)を観た人はどの人にもみんな感謝すると思うのよ。姉ちゃんが兄ちゃんの姿を見て、もし涙でもこぼしたら、おかしくない? ね、だから姉ちゃん観なかったのよ。 

 公開当時、「妻の気持ちはよくのみこめない」とする批評があったという。ここで「大情況と小情況」という補助線を引けば、妻の気持ちは少し分かるのではないか。

 夫は中国戦線という大情況のただなかにいる。個人という私的存在ではなく皇軍兵士である。そんな夫に「眼差し」というかたちではあれ、二人だけの関係を持ち込めるのか…。

この時のニュース映画の「正体」を、著者は「国民=国家(ネーション)にほかならない」と書く。夫婦間の心情の交流は「国民=国家」によってせき止められたのである。

 これに対して「浮雲」では、戦後日本の時間の流れに入り込めないまま辺境の地・屋久島で死んで行く女性が描かれた。著者は2本を合わせて「女が身をそむけるとき」と題した。むろん、そむけた相手は国民=国家と、そこに流れる時間である。成瀬が描いたのはそんな「女の身ぶり」である。

 やや哲学的で難解なのが玉に瑕だが、これまでに出会ったことのない視点が楽しめて刺激的な一冊。

 岩波書店、3200円(税別)。


敗者の身ぶり――ポスト占領期の日本映画

敗者の身ぶり――ポスト占領期の日本映画

  • 作者: 中村 秀之
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2014/10/29
  • メディア: 単行本

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言語が力だった時代~映画「三島由紀夫vs.東大全共闘 50年目の真実」 [社会時評]

語が力だった時代~

映画「三島由紀夫vs.東大全共闘 50年目の真実」

 

 1969年5月13日、東大駒場である討論会が開かれた。保守系知識人としての地位を確立した作家・三島由紀夫(三島自身は「知識人」と呼ばれたくないだろうが)と、この年月に安田講堂攻防戦があったばかりの東大全共闘約1000人。記録映像がTBSで見つかり、豊島圭介監督のもと、当時の取材者や時代の空気を知る知識人らのインタビューを交え、再編集して公開された。三島はこの年半後に自衛隊市ヶ谷で隊員に蹶起を呼びかけ、受け入れられず割腹自殺した。豊島は1971年生まれ、三島の死後に生まれた世代である。

 サブタイトルに「50年目の真実」とある。「真実」とは何か、映像では判然とはしなかったが、それはひとまず置く。ただ、映像は50年後、つまり今の視点で編集されたものであることは頭の隅に置きたい。「50年」を強調することで「時代」という額縁をはめ、両者が漂わせる不穏さ(今の時代に決定的にないもの)を解毒する作業が結果的に行われているように思えるからだ。

 そのうえで言えば、三島は思ったより紳士的? に対応している印象だった。別の言葉を使えば、壇上で「忍耐の人」であった。三島は「大正教養主義から来た知識人のうぬぼれというものの鼻をたたき割った」と全共闘に共感を示したが、ある種の媚びにも聞こえる。内田樹がブログで書いていたが、後の「蹶起」を念頭に「楯の会」のリクルート活動を行っていたのかも、という見方も否定できないという印象だった。

 当時、別の大学にいた私がこの討論会の内容を把握したのは活字によってであった。たしか「美と共同体と東大闘争」とサブタイトルがついていた。大学を出る時に売ってしまった。映像を見たうえで言えば、もはや討論を一字一句追ってみても意味はないと思う。50年もたてば、さすがに時代が違う(先の「時代感の強調」の指摘と矛盾するかもしれないが)。

 そんな中で「今の時代」に射程を持つ主張をしていたのは芥正彦だった。乳児を肩車して壇上に登った「東大全共闘随一の論客」である。あらゆる権力と時間からの解放区を唱え、在学中も今も演劇集団を率いる。三島を「敗退者」と断じ、それは「内容が即形態であり、形態が即内容である」表現行動をとらないからだ、と批判した(つまり、自己と一体化した表現がそのまま現実に刺さらなければ意味がない、ということだろう)。

 「天皇」に関しては、両者にそれほど差があるとは思えなかった(これは当時から言われたことだ)。三島は現存する天皇ではなくイメージとしてのそれを言っており、芥の言葉「内容が即形態であり、形態が即内容である」に戻れば、全共闘のいうバリケード空間=解放区と、レーゾンデートルという点でどれほど違うのか、ということだ。

 討論を映像で紹介した後、何人かの証言あるいはコメントがつながれていた。興味深かったのは、全共闘のメンバーとされた人物の「その後」の生きざまである。高橋和巳が「憂鬱なる党派」で書いたように、運動は終わっても人生は続く。このことを受け入れたくなかったら自殺するしかない。卒業後に地方公務員になった木村修、除籍され、予備校講師を勤めながら在野の評論家になった小阪修平(故人)、学者になった橋爪大三郎らがいる中(内田樹はこの討論会の翌年に東大に入った)、だれの発言か思い出せないが「後ろめたさと向上心を抱えて」社会で生きてきた、というのが、実感がこもっていた(もっとも「向上心」は美化しすぎでは。目の前の梯子段をともかく登らねば、という動物的反応のように思う)。

 「全共闘運動は敗北と認めるか」の問いに、一人だけ笑って否定したのが芥だった。「あなたの国ではそうかもしれないが、私の国では違う」という理由だった。一貫して「王国を作り、そこに住んだ」から言えるセリフではある。しかし、多少の想像を交えて言えば、あの時代の空気を吸って生きてきた者は、多少なりとも「我が王国」を作り、時にそこで息をひそめてその後を生き延びたのではなかったか。

 これも芥の言葉だったと思うが「言語が媒体としての力を持ちえた最後の時代」とする総括があった。映像は討論会から市ヶ谷で演説する三島とそれを聞く自衛官に切り替わったが、言葉の射程は確実に自衛官より全共闘の学生にあった。製作者がどこまで意識したか分からないが、三島にとっての痛ましいほどのアイロニーがそこにあった。

 今さらではあるが今の時代の、政治、社会、メディアに飛び交う空疎な、言葉らしきもの、を見るにつけ芥の言辞は響いてくる。そして、私の内側に一つの問いが立ち上がる。思想的に困難なのはあの時代だったか、それとも今か。

 

三島と全共闘.jpg

 


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最後にどんでん返しが待つ~映画「9人の翻訳家 囚われたベストセラー」 [映画時評]

最後にどんでん返しが待つ~

映画「9人の翻訳家 囚われたベストセラー」

 

 出版社が人気作家をホテルに缶詰めにして書かせる、という話は時々ある。しかし、数か国語に訳すため翻訳家をどこかの地下室に缶詰めにし、一斉発売まで極秘状態を保つというのはあるのか。ネットで探すと「ダ・ヴィンチ・コード」の原作者ダン・ブラウンが書いた最新作で同じようなことが行われたという。

    ◇

 ミステリー3部作「デダリュス」の完結編「死にたくなかった男」がついに脱稿した。版権を得た出版社の社長エリック・アングストローム(ランベール・ウィルソン)は売れ行きを見込んでか国語に翻訳、一斉発売を計画した。事前に内容が漏れることを恐れ、人の翻訳家は地下室に隔離された。地下室といってもそこはプールもあり、快適な生活が保障されていた。

 新作の内容を知るのは翻訳家とアングストローム、それに原作者のオスカル・ブラックだけのはずだった。翻訳家は1日分のページだけを渡され、全体を知ることはなかった。しかしある日、原稿の一部がネットに公開された。新作の全ページを公開されたくなければ金銭を支払えとのメッセージが添えられていた。

 犯人探しが始まった。当然ながら人の翻訳家が疑われた。ついには自殺者まで出たが、犯人は謎のまま、アングストロームは8000万ユーロを支払う羽目に。そして彼は、翻訳家の1人を誤って殺害した罪に問われ、刑務所にいた。そこへ現れた翻訳家の1人が、なぞ解きを始める。それは衝撃の事実だった…。

 ミステリーの前提が崩れるようなこんな結末、禁じ手ではと思わせるほどのどんでん返しが待つ。

 2019年、フランス・ベルギー合作。ミステリー、本好きにはたまらない作品。

 

翻訳家.jpg


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社会システムの脆弱性あらわに~三酔人風流奇譚 [社会時評]

社会システムの脆弱性あらわに~三酔人風流奇譚

 

「新型コロナウイルス」で見えたもの

 

松太郎 今年に入って新型コロナウイルス感染騒動が地球を覆っている。

竹次郎 中国・武漢を発生源とし、中国全土で万人の感染者を出したかと思えば、あっという間に日本、韓国、ヨーロッパへと飛び火した。

梅三郎 よく分からないのは、北朝鮮が「感染者ゼロ」としていること。表向きはともかく中国と人的交流があるのは間違いなく、それで感染者ゼロはありうるのか。感染者は強制隔離しているとか、処刑しているという極端な見方まで出ている。

松 まあ、感染者はいるが北朝鮮当局がひた隠しにしていると見るのが妥当だろう。ロシアも、感染者が2ケタ前半というのはちょっと信じられない。2つの国とも、表向きは強面だが政治システムとしては脆弱だ。だから隠さなければならないのでは。

竹 逆に、イタリアの感染者の多さと致死率の高さは異常だ。なぜだろう。

松 ベルルスコーニは毀誉褒貶の激しい政治家だが、彼が行った財政再建策で医療体制が犠牲になり、そのほころびが出たという説もある。

梅 米国は少し遅れてはいるが、これからどうなるか。爆発的に増えるとすれば米国ではないか。発生源の中国が収まりかけているだけに注目だ。

竹 確かに。米国はこれから日本と同じでスポーツシーズンに入る。米国の場合、テレビ放映権料というビッグビジネスが絡むから、日本のように無観客試合とは簡単にいかないだろう。大統領選候補者選びの集会も簡単には中止できない。

梅 地球上で人口の多い地域といえばアフリカ、中東。この地域でパンデミックが起きると怖い。

松 そんな中で、日本の対応は。

竹 さんざん言われているが、やはり後手後手に回っている感はぬぐえない。もっとスピード感ある対応はできなかったか。

梅 遅いとともに、極端から極端へぶれる印象がある。小中高の全国一律休業の「要請」もそうだ。

竹 もっとも首相サイドからすれば、あくまで「要請」なので従わなくてもいいという抜け道はある。

梅 戦時中の天皇の発言のようだ。無答責の天皇が感想めいたことを言えば、それが絶対的な命令のように受け取られる。後で問題になれば、周辺が「命令」であったことを否定する。そうして政治責任から免れる…。

松 やはり気になるのは、中国全土からの入国者を禁止したことだ。なぜこのタイミングで? というのはある。中国ではウイルス抑え込みが見えてきている。

竹 習近平国家主席の来日が延期されたことが、どう見ても直接の動機だろう。来日延期前に入国禁止措置は取りにくかったのでは。菅義偉官房長官は否定しているが。

 

政治システムと官僚

 

松 今回のウイルス騒動で顕著だったのは、官僚組織の脆弱性だ。それがそのまま日本社会の脆弱性につながっている。

竹 どういうことか。もう少し詳しく。

松 まず、厚労省が当事者能力を失っていた。「ダイヤモンドプリンセス」の隔離についても、初期対応を誤ったのは厚労省官僚の判断ミスのためだ。この件は神戸大医学部の岩田健太郎教授が鋭い指摘をしたが、あっという間に消された。おそらく指摘が的を射ていたために、どこからか圧力がかかったのだろう。

梅 ウイルス対策として水際作戦をとるなら、その「水際」はどこにあるかは、すべての人に見えていなければならないが、終始見えなかった。船内のどこかか、岸壁のどこかか。そのラインの内側と外側で当事者のウイルス対応は鮮明に分かれているはずだったが、見えてこなかった。岩田教授もそこを突いた。

竹 そもそも、専門家会議のメンバーがどんな構成なのか見えない。

松 メンバーは国立感染研の所長を座長として12人。これはネットで公開されている。感染症の専門家のほか弁護士が1人入っている。

梅 岩田教授は感染症の防護システムについての専門家のようで、経歴を見る限りだが、そちらの知見もありそうだ。こうした人は専門家会議にいるのか。

松 そこまでは分からない。

竹 専門家会議と銘打っているが、むしろ感染症というフィールド外の人材を入れるべきでは。メディアとか社会工学とかの専門家を入れればもっと違った提言ができるはずだ。

松 うーむ。それはどうかな。難しいところだ。科学とメディアをシステム工学的に結び付け最高水準のプロパガンダの仕組みを作ったのがナチスドイツで、遺産は戦後の米国に引き継がれた【注】。そこは賛否両論あるだろう。

竹 これまでの日本では、いわゆる専門家の知見を社会工学的に翻訳してきたのが官僚組織だ。その官僚組織が機能しなくなってきた。そのことがダイヤモンドプリンセスの失敗、PCR検査体制の立ち遅れという、如実な現象となって現れた。しかし、最後は政治が決断し責任を取るしかない。

 

脆弱性の源流は

 

梅 官僚組織の機能不全については同感だ。なぜこうなったのか。

松 官僚主導で戦後日本の高度経済成長が成し遂げられたが、成長も減速し社会構造が変わる中で政治主導が叫ばれた。そこで官邸による霞が関の人事権掌握がなされた。ここまでは流れとしてはよかったかもしれないが、それならそれで主導権を握る政治の側に高邁な理想、高い倫理性がなければならない。いわば社会の青写真だ。それがないために、いたずらに霞が関官僚を堕落、腐敗させるだけになってしまった。官邸さえ見ていれば上昇できるという…。

竹 国家公務員法の「解釈」変更による検事の定年延長も、この線上でとらえられる。なんとも情けないことだ。

松 今回のコロナ対策では、政治の側の脆弱性も見えた。例えば加藤勝信厚労相、萩生田光一文科相、新たにコロナ対策担当に任命された西村康稔経済再生担当相ら、いずれも安倍晋三首相の側近だ。多少政権に遠くても能力を見込んで登用した、という人事が見えない。こんなところにも政権の懐の浅さが見える。検事のごり押し定年延長と合わせて読めば、政治を脆弱にした政権の特質が見える。

梅 背景にあるのは小選挙区制度導入という国家的失敗だ。現職と与党が圧倒的に有利なこの制度下で、無知無能な安倍政権が長期化してしまった。少なくとも安倍政権は早く辞めさせないと、官僚組織だけでなく日本の根幹をなす社会システムまで破壊される。今回の新型ウイルス騒動は、感染者対策だけでなく日本の屋台骨を蝕むシロアリの脅威まで白日にさらした。

松 そうしたタイミングで「非常大権」による私権制限が可能になった新型インフルエンザ等対策特別措置法改正が3月13日にも成立する。ナチスドイツのようなワイマール体制の「アリの一穴」とならなければいいが。

 

【注】本ブログ「現代を生き延びるファシズム~濫読日記 『ファシスト的公共性 総力戦体制のメディア学』(佐藤卓己著)」参照。

 


ファシスト的公共性――総力戦体制のメディア学

ファシスト的公共性――総力戦体制のメディア学

  • 作者: 佐藤 卓己
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2018/04/05
  • メディア: 単行本

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リアルな終末の風景に何を感じるか~濫読日記 [濫読日記]

リアルな終末の風景に何を感じるか~濫読日記

 

「極北」(マーセル・セロー著)

 

 不思議な作品である。サバイバルもしくは冒険小説と思い読み始めたら、途中からがらりと印象が変わった。出てくるのはリアルな終末の風景である。つまり、近未来もしくはディストピア小説であった。

 舞台はシベリア。レナ河という地名が出てくるのでその付近らしい。米国の、貧困にあえぐ人たち約7万人が3波にわたる入植計画でこの地に移り住んだ。多くはクエート教徒らしい。国家としてのロシアはとうに崩壊している。つの都市が建設されたが、現地の住民らによって襲撃され、滅亡した。そのうちの一つの都市エヴァンジェリンで一人生き残ったメイクピース・ハットフィールドが主人公である。

 世界でただ一人生き残ったら何を想い何をするか、というのは哲学的命題として語られるが、ここでも、その命題のもとでのモノローグが延々と続く。そしてメイクピースは、一度は自殺を試みる。

 廃墟をさまよううち、メイクピースは少数の生存者たちと出会う。そして、不思議な都市へと物資調達に向かう。そこはポリンと呼ばれ、奥に隠された都市ポリン66を抱えていた。廃墟から、かつては先進的な都市らしかった。放射能で汚染され、青い光を放つフラスクが残されていた。

 このようなエピソードが挟まれてはいるが、全編覆うのは該博な知識に裏付けられた圧倒的な自然描写と孤独に包まれた心理描写、そこから導き出される文明批判である。例えば、こんな具合だ。

 ――何しろ地平線から地平線まで、その道路は続いている。砂利の青白さと、地球の湾曲のせいで、道路は地面から僅かに浮き上がっているみたいに見えた。それは前方にも後方にも、永遠に延びているかのようだった。そしてどちらを向いても、人影一つ見えない。

 ――生まれてから45億年ほど経ったときに、地球は変化し始めた。宇宙から眺めていれば、宇宙船やら人工衛星やらがまるでポップコーンみたいに、そこからぽんぽん飛び出してくるのが目にできたことだろう。人類が農耕を覚えて以来、地球は一貫して温暖期にあった。農耕に適した気候に我々はすっかり慣れてしまった。しかし今や人口は増加し、全員があまりに多くのものを求め、全員が全盛期に発明された機器で武装していた。


 翻訳した村上春樹が「あとがき」で明かしたところでは、マーセル・セローはこの作品を出す前に、原発事故で放射能汚染されたチェルノブイリ近郊30㌔圏内に住む女性を取材している。したがって、ポリンという都市にはこの時の体験が反映されていると見るべきだろう(福島原発事故は、作品が出た後に起きた)。つまり、終末の風景から見た原発、環境問題がこの作品には色濃く影を落とす。

 寓話の中にさまざまなメタファーが埋め込まれている。一度ではそのすべてを掘り起こすことは困難だ。何度か読み通して後、価値が分かる。そんな作品である。

 中公文庫、860円(税別)。

 


極北 (中公文庫)

極北 (中公文庫)

  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2020/01/21
  • メディア: 文庫

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間違いなく三池ワールド~映画「初恋」 [映画時評]

間違いなく三池ワールド~映画「初恋」

 

 ボクシングと暴力と淡い恋。そんな三つの味で出来上がっている。

 幼いころに捨てられ、親の顔さえ知らない葛城レオ(窪田正孝)は、ある試合で不覚のパンチを受けリングに沈む。不吉な予感がした彼は病院を訪れ、脳腫瘍と診断された。「俺の人生も終わり」と絶望感に打ちひしがれ新宿の街をさまよう眼に、逃げる女と追う男が飛び込んできた。「助けて」の声にとっさに反応、男に一発を食らわせた。

 男はマル暴担当の悪徳デカ大伴(大森南朋)で、女は父親によって暴力団に売られ、薬物中毒に悩むモニカ(小西桜子)だった。大伴のポケットから警察手帳を発見したレオはモニカとともに逃げる。二人の長い夜が始まった。

 発端は暴力団の一員・加瀬(染谷将太)が覚せい剤の横取りをたくらんだことだった。加瀬は、暴力団と一体になっていた大伴に計画を持ち掛け、売人の元締めヤス(三浦貴大)を殺害。犯行の主を突き止めたヤスの情婦ジュリ(ベッキー)や暴力団の昔気質の幹部・権藤(内野聖陽)、それに中国マフィアの女チアチー(藤岡麻美)、権藤と敵対するワン(顏正國)らが絡み、追いつ追われつの大活劇? が展開される。逃走劇の末、レオに病院から電話がかかった。それは意外な内容だった―。

 窪田は「ふがいない僕は空を見た」で、脇役だが母一人子一人の貧しい青年役でいい味を出した。今回も、薄幸のボクサーを存在感たっぷりに演じた。そしてなにより、やくざの情婦を演じたベッキーがすごい。

 アナーキーな世界を駆け回った挙句、小さなアパートでひっそり暮らすことを選んだレオとモニカの姿にはかつての藤田敏八監督「スローなブギにしてくれ」のラスト(片岡義男の原作にはない、映画の創作)を思い出させるものがあった。

 監督は「一命」の三池崇史。好き嫌いはあるが、間違いなく「三池ワールド」である。2019年、日本。


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