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難解だが刺激的な一冊~濫読日記 [濫読日記]

難解だが刺激的な一冊~濫読日記

 

「敗者の身ぶり ポスト占領期の日本映画」(中村秀之著)

 

 GHQ占領直後の日本映画と日本社会を、精緻な分析で追究した。戦後史の中でこの50年代は、著者の言葉を使えば「奇妙に不鮮明な時代」といえる。映画論であるこの書では、具体的には194956年を対象とし、根拠としては、日米合作で業界内組織としてスタートした映倫が第三者機関に衣替えするまでの時期とした。

 タイトルは「敗者の身ぶり」。「敗者」はむろん、敗戦国日本の国民を指す。難解なのは「身ぶり」である。映画の持つ「昼」と「夜」の概念が背景にある。「昼」とはこれまでに文字化されたり、概念として確立されたりしている部分だが、「夜」はいまだ「闇」として宙づりになっている部分である。そこを言語化するのが狙いらしい。著者の言葉でいえば以下のようになる。

 

 ――歴史の昼とは、言論や行動、必要や目的が支配する領域である。(略)歴史の夜とは何なのか。それは言論や行動によって表されることなく、必要や目的から解き放たれ、その前提としての直線的な時間とは異質な時に満たされて、さまざまな同一性が解体される、ほとんど伝達不可能な領域である。(略)歴史の夜はそれぞれに異質な無数の断片のように生まれては消えてゆく。

 

 これはフロイトの無意識下の世界を指すのか、と思ったが、著者はベンヤミンに論拠を求める。残念ながらいまだ立ち入ったことがないベンヤミンの世界に関する言及はここまでにしておきたい。政治的、社会的な位置づけの部分を「昼」の部分とし、無意識下にあるとされてきたスクリーン上の振る舞いの部分を「夜」としてその部分を解き明かそうとした、というのが我が理解である。

 

 映画の話に戻そう。監督としては黒澤明、小津安二郎、谷口千吉、成瀬己喜男。このほかプログラムピクチャーから「二等兵物語」が取り上げられた。すべては追えないので主要なものをピックアップする。

 

 小津作品では「晩春」「麦秋」を取り上げ、原節子が演じる紀子(2作品に共通する役名)について論じた。ここで「抵抗と代補」という言葉が用いられる。紀子は家族の中で不在の人物の代わりを務めている。それは母であったり次兄であったりする。ただ、二つの作品で紀子の生きざまは対照的である。「晩春」では勧められた結婚より父と暮らしたいと願っている。「麦秋」では、周囲の抵抗を押し切って結婚へと向かう。そうした展開の中、紀子の「身ぶり」の意味が詳細に論じられる。

 そして、有名な「麦秋」のラスト。大和に引っ込んだ老夫婦が、他家の嫁入りの一行を眺めている。麦畑の穂が揺れている。何気なしにこのシーン、ただ日本的な風景と捉えていたが、著者は途中に挟まれた次兄からの手紙と一本の麦穂のエピソード―徐州から紀子の結婚相手の謙吉に送られた手紙を、紀子が「頂戴」とねだる―を絡ませ、中国戦線で散った兵士たちの魂の生まれ変わりと解釈する。

 

 黒澤作品では「生きる」「七人の侍」「生き物の記録」を取り上げ、3作に共通するテーマとして自己と他者、問いと代行をあげた。「生きる」は余命を知った地方公務員の主人公が市民の代行に命を燃やし、不衛生な下水溜りを公園に整備する。「七人の侍」は、農民という他者のために武士たちが野武士と闘う。しかし、「生きものの記録」はこのテーマにはまるのか、正直よく分からなかった。鋳物工場の経営者が原水爆の恐怖から逃れるため海外移住を計画。家族に断られ工場に放火、精神病院に入れられる。前2作では問題の所在、当事者、代行者がはっきりしているのに比べ、「生きものの記録」では主人公自体が問題の所在であり、当事者(家族)の要請を受けた代行者(裁判所)によって葬られる。3作を同じカテゴリーで論じることに無理があるといえそうだ。

 

 成瀬の「なつかしの顔」と「浮雲」の分析も面白い。「なつかしの顔」は戦中(41年)の30分余の短編。中国戦線のニュース映画に長男が写っているという知らせが届く。母はスクリーンに涙し、見逃してしまう。妻がその後、見にいくのだが、ためらった挙句に引き返す。様子を聞こうとした弟に責められ、こういう。

 ――なんだか観たくなかったの。観なくてもいいような気がしたの。兄ちゃんは大勢の兵隊さんといっしょにお国のために働いているんでしょ。あの写真(注:映画)を観た人はどの人にもみんな感謝すると思うのよ。姉ちゃんが兄ちゃんの姿を見て、もし涙でもこぼしたら、おかしくない? ね、だから姉ちゃん観なかったのよ。 

 公開当時、「妻の気持ちはよくのみこめない」とする批評があったという。ここで「大情況と小情況」という補助線を引けば、妻の気持ちは少し分かるのではないか。

 夫は中国戦線という大情況のただなかにいる。個人という私的存在ではなく皇軍兵士である。そんな夫に「眼差し」というかたちではあれ、二人だけの関係を持ち込めるのか…。

この時のニュース映画の「正体」を、著者は「国民=国家(ネーション)にほかならない」と書く。夫婦間の心情の交流は「国民=国家」によってせき止められたのである。

 これに対して「浮雲」では、戦後日本の時間の流れに入り込めないまま辺境の地・屋久島で死んで行く女性が描かれた。著者は2本を合わせて「女が身をそむけるとき」と題した。むろん、そむけた相手は国民=国家と、そこに流れる時間である。成瀬が描いたのはそんな「女の身ぶり」である。

 やや哲学的で難解なのが玉に瑕だが、これまでに出会ったことのない視点が楽しめて刺激的な一冊。

 岩波書店、3200円(税別)。


敗者の身ぶり――ポスト占領期の日本映画

敗者の身ぶり――ポスト占領期の日本映画

  • 作者: 中村 秀之
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2014/10/29
  • メディア: 単行本

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