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テンポの良さは一級品だが…~映画「スキャンダル」 [映画時評]

テンポの良さは一級品だが…~映画「スキャンダル」

 

 ハリウッドで剛腕プロデューサーを相手に“#Metoo”運動が展開されたが、そのテレビ界版。というより、この事件がハリウッドに波及した、といったほうが正確かもしれない。標的は、ケーブルテレビ「FOX News」を一代で築き上げた経営者。保守系メディアとして知られ、CNNのニュースはフェイクだとするトランプ大統領はFOXのニュースしか見ないともいわれる。近年、こうして急成長したFOXで何が起きていたか。ということで一見の価値ありと思ったが、まあ、見なくてもよかったかな?という出来だった。

 ニュースキャスターの座を争う3人の女性。メーガン・ケリー(シャーリーズ・セロン)はプライムタイムの看板キャスターで、頭も切れる。ケイラ・ポスピシル(マーゴット・ロビー)はその座を狙う若手。グレッチェン・カールソン(ニコール・キッドマン)は一線を引き、用なしと判断されて解雇された。激しい競争に耐えて生き残りを図る彼女たちの野心に付け込むのが、FOXの育ての親ロジャー・エイルズ(ジョン・リスゴー)。キャスターのポストをちらつかせながら、セクハラ行為を繰り返していた。

 そんな中で立ち上がったのが最古参のグレッチェン。証拠を集め、用意周到にロジャーを告訴。職場の証言を募るが、当初は誰も応じないかに見えた。しかし、水面下では続々と証言者が現れた。当時、FOXはメディア王マードックに買収されていた。したがって、トップの人事権はマードックが握っていた…。

 アメリカ映画らしく、歯切れの良さとテンポの良さは天下一品。FOX社内で火花を散らす3人の演技も見せる。しかし、それ以上のものがなく感情移入が難しい。まあ、アメリカのテレビ界ではこんなこともあるのね(あったのね)、といった程度のことは伝わるが、いかんせんメディア論やジャーナリズム論とは遠い地平のドラマ。これがファッション界の出来事、として映画化されていても違和感はない。そのあたりに作品の限界が見える。

 2016年に起きた実話をもとに2019年に映画化。アメリカ・カナダ合作。

 


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今も有効な戦後思想批判~濫読日記 [濫読日記]

今も有効な戦後思想批判~濫読日記

 

 「『サークル村』と森崎和江」(水溜真由美著)

 

 著者の水溜は序章で、博士課程進学後に森崎の「ははのくにとの幻想婚」を読み「評論の密度の濃さ、ユニークさ、そしてテーマの多様性に圧倒された」と書いている。1972年生まれの水溜が「ははのくにとの…」に触れたのは、早くても1994年か95年ごろだろう。敗戦から50年後のこのころ、戦後史の大きな節目が訪れていた(ちなみに95年は阪神大震災、オウムの地下鉄サリン事件の年である)。この時代になぜ水溜は、自身が生まれる少し前に出された著作に心を奪われたのか。戦後の出発点でもあるカオスの時代、1950年代から60年代初頭にかけて展開された「サークル村」運動にまで関心の領域を広げたのはなぜか。大いに興味を持ち、この「『サークル村』と森崎和江」を手にした。

 水溜は森崎和江にまず関心を持ち、そこから思想的にも日常的にもパートナーであった谷川雁、サークル村運動の同志であった上野英信へと視野を広げていく。そこから、総資本対総労働の闘いといわれた三井三池闘争、その後の退却戦であった大正鉱山闘争、そして安保闘争にいたる分析を通じて50年代から60年代の時代性が何であったかにたどり着く。

 しかし、この分厚い著作は、思想的に分け入った足跡とは全く逆の方向性のもとに編纂された。即ち、1950年代の労働運動を俯瞰することから始め、炭鉱労働者のサークル運動と労組の関係、谷川のサークル構想、上野のサークル実践と展開。最後に森崎を語っている。

 「おわりに」で触れられたように、この著作自体は著者・水溜の博士論文に大幅な加筆修正を加えたもので、全体としての論文的構成は避けられないように思える。そのうえでなお、時代背景から入り森崎の思想論に向かう道筋は、これでいいのか、という思いがしないでもない。

 その点で多少の引っ掛かりはあるものの森崎、谷川、上野、そして当時のサークル運動をひっくるめての壮大な時代論である、という評価は揺るがない。余談に近いことを言えば、博士論文の審査で、森崎和江論に比べ「サークル村」論の評価が低かったと著者が漏らしているが、この点は同じ感想を持った。一言でいえば、森崎和江論の方が、圧倒的に熱量が高いのだ。

 そんなわけで、森崎論に焦点を当てる。「森崎和江における『交流』の思想」と題されている。植民地朝鮮で幼少期を過ごした森崎は閉鎖的・排他的な日本の伝統的共同体の体質に鋭い批判の目を向けた。それはナショナリズム批判にもつながり、「サークル村」運動や大正闘争を担った集団の体質の根にも刃は向けられた。そこから森崎独特の「交流論」へと展開する。

 エネルギー革命による鉱山の大量合理化に直面したことで、労組からも捨てられた底辺の労働者は「異族」との接近を迫られた。「異族」とは朝鮮人であったり、被差別部落民であったりする。近代日本の底辺に押し込められた人々である。森崎によればそれは、朝鮮人に「同化」を求めた植民地政策とは違う、他者との自覚的な「交流」というかたちをとるべきであった。しかし、近代日本の縮図の中で、そうはならなかった。

 ―森崎によれば、日本の民衆は国家によって引き合わされた「異族」をもっぱら共同体への同化をもって遇し、「異族」との間に自立的な関係を築きえなかった。また、だからこそ日本の民衆は、敗戦に伴う植民地の喪失やアメリカによる占領の継続といった政治の要請により朝鮮人や沖縄人が「日本」の外部に位置づけられるや否や、たやすく彼ら彼女らに対する関心を失ったのである。

 水溜を通じて語られた森崎の観点は、今も戦後思想批判としての有効性を失ってはいないように思う。

 森崎は、大正行動隊に巣くうどうしようもない家父長制の残滓も批判する。そして発行したのが「無名通信」である。妻でも母でもない、女という冠詞さえもいらない。ただの人間として扱ってほしい、との願いを込めて「無名」とした。そして、家庭内の性分業を前提にして労組の補完的役割を担った炭鉱労組の主婦組織をも標的とした。この思想的営為もまた、残念ながら未完に終わっている。では、森崎は男女の関係をどのように築こうとしたか。水溜によれば、以下のようになる。

 ―男女がともに労働を担いながら、対に閉ざされることなく友情と愛を育んでいくような関係性こそが、森崎が理想とする関係性の原イメージだった。(「森崎和江の女性論」、271P)

 森崎は「からゆきさん」に対しても独自の視点を持った。近代日本の被害者として見ていただけではなかった。「日本と、日本のそとのくにの人たちとの、からだをかけた媒介者のように思えます」(315P、森崎著「わたしと言葉」から)。

 多くの場合、このことは「可能性」の次元で終わったかもしれないが「からゆきさん」に交流者=媒介者を見ようとしたのである。背景には「からゆきさん」を生んだ地が天草や島原といった辺境であり、国境より日常的生活領土を優先させる「眼差し」を持つ民であったことがあると、森崎は指摘する。しかし、こうした交流の試みの芽はやがて摘み取られた。日本によるアジア侵略によって、である。

 こうしてみると「いまなぜ森崎和江か」という問いの答えの一端が見えてくるように思う。彼女は炭鉱の地底に押し込められた労働者と「異族」との間に交流と連帯を構想した。地底から向けられた眼差しであったことで、批判は近代日本を貫く射程を持ちえた。このことの意味は、半世紀以上を経てなお有効であるように思える。

 ナカニシヤ出版、3800円(税別)。

 


『サークル村』と森崎和江 ―交流と連帯のヴィジョン―

『サークル村』と森崎和江 ―交流と連帯のヴィジョン―

  • 作者: 水溜 真由美
  • 出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
  • 発売日: 2013/04/19
  • メディア: 単行本

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「結婚」の意味を問う~映画「Red」 [映画時評]

「結婚」の意味を問う~映画「Red

 

 島本理生の原作は読まないまま、映画「Red」を観た。性描写が多く賛否両論がある、ということでなんだか気が進まなかったからだ。映画は原作よりややソフトに仕上がっている、とのことだった。

 塔子(夏帆)はエリート商社マンの村主真(間宮祥太朗)と結婚、豪邸の中で傍目には何不自由ない生活を送っていた。しかし、内実は息の詰まるものだった。失跡した父のことを隠し、飾り物のように扱われ、義母との関係に気を遣い、つま先立ちで送る日常。そんなある日、かつての恋人・鞍田秋彦(妻夫木聡)と再会した。

 二人は10年の時を越え、再び愛し合う。塔子は子育てが一段落したことから再び社会に出ることを希望する。こうして鞍田と塔子は同じ建築事務所で働くことになった。しかし、鞍田は10年前と違ってリンパ性白血病に冒されていた。設計を任されていた新潟の酒蔵の工事が大詰めに来て鞍田は体調を崩し、代わりに塔子が出張する。工事は乗り切ったものの、大雪で東京へ帰ることが困難だった。自宅へ電話するが、夫は子供のために帰ってこい、という。結局、大雪の中を塔子は東京を目指す―。

 夫の真は恵まれた生活環境だが、一方で家父長制に何の疑問も抱かないマザコン男として描かれる。鞍田は、不倫を承知で塔子を犯す「ひどい男」として、一方で難病を抱える命の儚さの象徴として描かれる。二人の男の間で揺れる塔子の心。そんな塔子に母の陽子(余貴美子)が浴びせた言葉は…。

「嘘をついて幸せなの? 人間さ、どれだけ惚れて死んでいけるかじゃないの?」

 

 極めて楽天的な目からすれば、塔子の悩みは「遅ればせのマリッジブルー」と見えなくもない。しかし、それでは塔子がかわいそうだろう。一方で、塔子と鞍田の関係を「失楽園」のそれ、つまり不倫関係と見るのは。それも違っているだろう。「失楽園」は、既存の婚姻関係を不動として物語を構築したが、「Red」は少なくとも現状の婚姻制度そのものの意味を問う、という視点を秘める。

 そして真も鞍田も、それぞれが一つの典型として描かれているが、現実の人間はこの二人の間のどこかに位置している。そう見れば、問いの持つ普遍性が分かってくる。

 最終的に塔子は「一人で歩いていく」という選択をするが、ここに込められた意味は大きい。大仰に言えば、その一点を掘り進めば、現行の「閉じられた一夫一婦制」は近代社会が産み出した「病」ではないか、という地点にまで到達しえても不思議はない。

 思いのほかテーマ性のある「重い」映画と実感した。監督・三島有紀子の力技。ただ、吹雪の中の塔子と鞍田のシーンで舞う赤い布の意味は今一つ理解できなかった(タイトルも含めて)。赤は血の色、炎の色であることから人間の情念、赤い糸を連想させるが、そういう線上の表現ということか。

 2020年、日本。

 


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迫真性と臨場感~映画「1917 命をかけた伝令」 [映画時評]

迫真性と臨場感~映画「1917 命をかけた伝令」

 

 エンドロールで、この映画が実話に基づくものと知った。監督のサム・メンデスが、第一次大戦の西部戦線で兵役についていた祖父から聞いたらしい。

 レマルクの「西部戦線異状なし」でも描かれたように、第一次大戦の特徴の第一は塹壕戦だった(その歴史的背景はこれまでに触れているので、ここでは書かない)。死臭漂う塹壕内部がリアルに再現されていた。そのリアルさが迫真性と緊迫感を与えている。そのうえで長回しカットが臨場感をもたらした。

 その結果、たどり着いたものは。

 冒頭書いたように、この映画は個人の体験を映像化することから始まっている。描かれた日も1917年4月6日と具体的だ。しかし、個々のシーンは50年後、ベトナム戦争の一シーンと断っても通用するのではないか。即ち、戦争とは何か、という問いに対する答えという意味では、この映像は普遍性すら持ち得ている。伝令役の兵士が炎上する廃墟の中で十字架像を目撃するシーンなどは、F・コッポラの「地獄の黙示録」を連想させる(少し褒めすぎか)。

 ストーリーは単純だ。おそらく、戦争の中での一つのエピソードにすぎない。

 1917年、フランス北部に侵攻したドイツ軍が突如撤退した。これを見た英軍は戦機とみて進軍態勢をとった。しかし、実はドイツ軍の巧妙なおとり作戦だった(敵を引き込んで側面から撃つ。この作戦でドイツ軍がロシア軍に対して大きな戦果を挙げたのが1914年のタンネンベルグの戦い=詳しくは片山杜秀「未完のファシズム」参照)。航空機による偵察でドイツ軍の作戦を察知した英軍エリンモア将軍(コリン・ファース)は、D連隊1600人を救出するため伝令2人を選抜、攻撃中止を伝えるよう命じた。激戦のため、すでに通信手段は壊滅状態だったからだ。

 こうしてブレイク(ディーン=チャールズ・チャップマン)、スコフィールド(ジョージ・マッケイ)の二人の上等兵は無人の前線へ飛び出す。二人は伝令の任務を果たすことができるのか。

 若干褒めすぎた感もあるので、ここで少し修正するが「実話」という部分はほとんど「ヒント」にすぎないであろう。後は監督ら映像の作り手による創作部分が大きいと思う。それが結果的に、迫真性と臨場感という意味で、戦争映像としての普遍性にまでたどりつかせた。言い方を変えれば、実話に縛られなかったことが作品の水準を上げた。

 ややこしくなったが、最終的な評価としては悪くない。若干のヒロイズムと宗教色を除けば。2019年、米英合作。

 


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「焼跡・闇市」が物語の縁をとる~映画「グッドバイ」 [映画時評]

「焼跡・闇市」が物語の縁をとる~映画「グッドバイ」

 

 原作は太宰治の未完の、そして最後の作品。小説のプロットを生かしてケラリーノ・サンドロヴィッチ(緒川たまきの夫で日本人)が舞台化、さらに監督・成島出で映画化された。

 太宰は彼の最大の傑作「人間失格」を書きあげて「グッドバイ」に取り組み、完成前に玉川上水で情死した。

 さて、映画の「グッドバイ」。基本的なプロットは太宰の原作と同じで他愛もない、といっていい。そんな中、底流にあるのは終戦直後の庶民のアナーキーでニヒルな心情であろう。焼跡に立って明日は明日、どうなろうと運しだい、というある種青天井の心象風景である。この辺はしっかり押さえてあり、濃い縁取りを与えている。

 ある文芸雑誌の編集長・田島周二(大泉洋、役名は太宰の本名のひねりだろう)は裏稼業の闇屋でもうけ、女性10人を囲う生活を送っていた。しかし、増えすぎた愛人との生活を反省、手を切ってまともな生活はできないかと考える。そこで不良文士・漆山連行(松重豊)に相談したところ、ある「名案」を言い渡された。

 どこかからすごい美女を探し出し「夫婦」と称して愛人のもとを回る。そうすればみんな手を引く、というのだ。そんな美女はいるのかと探したところ、いた。担ぎ屋の永井キヌ子(小池栄子)である。普段は泥だらけだが、ひとたびめかしこめば誰もが振り返る美女だった。しかし、担ぎ屋だけに大食いと声の大きさが難点だった。

 こうして偽夫婦の愛人めぐりが始まった。後はドタバタ喜劇であるが、ある日、田島に不幸が訪れる。路上で強盗に襲われたのだ。

 「さよならだけが人生さ」とは、太宰の師匠の井伏鱒二の言葉だったと記憶するが、まるで太宰にぴったりくる。コミカルで哀しい語感を忍ばせるが、映画自体は胸をなでおろすハッピーエンドである。それにしても小池栄子ははまり役。バイタリティーと美貌を両立させるこの役、彼女以外にあり得ないだろう。田島の妻に木村多江、愛人に水川あさみ、緒川たまき、橋本愛ら、そうそうたる顔ぶれ。

 2019年、日本。

 


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日常に潜む不条理と破滅の予感~映画「影裏」 [映画時評]

日常に潜む不条理と破滅の予感

~映画「影裏」

 

 沼田真佑の短編小説を映画化した。2017年、デビュー作であるこの作品で文学界新人賞、芥川賞を得た。

 主人公の今野秋一(綾野剛)は埼玉の薬品会社から岩手の子会社に出向となっていた。そこには同じ齢の日浅典博(松田龍平)がいた。内向的な今野と無頼な日浅は性格こそ正反対だったが、休日には日浅に連れられ、渓流釣りを楽しむ仲になっていた。そんな日浅がふっつりと会社を辞めた。

 しばらくして今野の前に現れた日浅は、冠婚葬祭の互助会の営業をやっていた。再び以前の付き合いを取り戻した二人は、渓流釣りに出掛ける。そして2011年の11日。日浅の消息が途絶えた。「日浅は亡くなったらしい」との情報が、今野の耳に入る。

 今野は思い立って日浅の父親(国村隼)を尋ねた。そこで聞いた話は、日浅の人生そのものを否定するような内容だった。日浅を息子とは認めず、捜索願も出さないという。

 ストーリーとしてはこれだけである。しかし、もともとミステリーではないのでストーリーテリングの着地点に意味を求めても仕方がない。意味があるのは今野の日常の背後にひそむ心理の緻密な描写である。そしてそこから立ち上がる、ただならない崩壊と破滅の予感、断片でしかない日常が醸し出す不条理感であろう。

 映画でこれらは表現しえたか。全編にわたって暗色に仕立てた画調はその答えの一つであるが、破滅や不条理を前にしての心理の揺らぎは今一つ描写が足りていないように思う。一方でホモセクシャルな主人公の性向が、映画ではかなり端的に表現された。原作では、男性から女性へ性別適合手術を受けたかつての恋人の存在があり、主人公の性向をにおわせてはいるが、ここまで露骨な表現が要ったかどうか、若干の疑問を感じないでもない。

 タイトル「影裏」が何を意味するかなど(日浅の言葉で若干の言及があるとはいえ)、見るものが置いてきぼりを食う恐れのある作品。したがって、原作は観る前に読んでおいた方がいい。「影裏」を収めた短編集には「廃屋の眺め」「陶片」の作も入り、沼田真佑の志向するものが何であるかも理解できる。

 映画は2020年、日本。監督は大友啓史。短編集は文春文庫、550円(税別)。

 

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影裏 (文春文庫)

影裏 (文春文庫)

  • 作者: 真佑, 沼田
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2019/09/03
  • メディア: 文庫

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「アジア」を今日的にとらえ返す契機に~濫読日記 [濫読日記]

「アジア」を今日的にとらえ返す契機に~濫読日記

 

「論点別 昭和史 戦争への道」(井上寿一著)

 

 昭和の冒頭の20年間を10のテーマに分けて論じた。この時代、日本は政党政治に幕を下ろし、ひたすら戦争へと向かった。なぜなのか。それは回避可能だったのか。

 「昭和史」をめぐる著作は書店の店頭にあふれている。著者の言葉を借りれば「玉石混交」で「なかには『歴史戦』を戦う『武器』の供給や陰謀史観による自己充足を目的とした本」もある。こうした現状に一石を投じたこの書の狙いを「おわりに」で以下のように書いている。

 ――専門研究と非専門研究に架橋する。架橋の方法の一つとして、エピソード記述を織り交ぜる。

 一定の政治的意図や「面白味」を狙い、昭和史はことさらに単純化されたり、単色に彩られたりしがちである。「戦争への道」となると特にその色彩が濃い。それを、今日の知見に照らし合わせ学問的正統性に耐えうるものに、というのが著者の狙いである。しかし、学問的知見に忠実な歴史を書こうとすれば得てして中間色になり、分かりにくく、面白味を欠くものになる懸念がある。そこで、著者はエピソードを盛り込むことを心がける。

 

 位置づけの話はここまでにして、では著者が選んだ10の論点とは。

 天皇▽女性▽メディア▽経済▽格差▽政党▽官僚▽外交▽日米開戦▽アジア―である。「戦争への道」をサブタイトルに据えている以上、軍部というテーマは欠かせないが、各分野を横断する潜在的テーマと位置づけられている。このうち「女性」「メディア」は類書との違いを際立たせるため、あえて挑戦したテーマであると断っている。10の中から、いくつか記憶に残ったものをピックアップしよう。

 <天皇>日米開戦を回避する決断はできなかったか。あるいは、終戦の「聖断」はもっと早くできなかったか。明治以降の日本の政治体制は立憲君主制だった。天皇も、その上で行動するしかなかった。開戦においても終戦においても、独裁体制でない以上「聖断」は必ずしもそのまま国家意思とはならなかった、という見立てである。

<メディア>加害者か、被害者か。こうした問題の立て方に対して「投書階級」の存在を指摘する。エリートでも大衆でもない「亜インテリ」(丸山真男)が、世論形成に影響力を発揮した。流行歌や西洋クラシックは堕落として排斥された。佐藤卓己著「言論統制」なども挙げ、軍=強者が一方的に世論を押さえつけたのではない、という構図を提示する。

<外交>軍部=悪、外務省=善という色分けがある。これに貢献したのは、広田弘毅を悲劇の文民宰相として描いた城山三郎の「落日燃ゆ」だろう。果たして広田外交は戦争回避を目指し、軍部が待ったをかけたのか。これに対して幣原喜重郎による外交(幣原外交)を取り上げ、広田外交には限界があった、とする。

<アジア>あの戦争は侵略か解放か。これは今でも論争があるところだ。1980年代以降、戦争が民族運動を加速させたとする「触媒」説、アジアの戦争協力体制の強化を目指した大東亜会議の再評価(「解放を目指したアジア・サミット」)が出てきたことに着目、この問題が一筋縄でいかないことを示した。しかし、決定的なことは「日本政府は、民族解放や植民地支配の是非を争点に戦争に突入したのではなかった」。真の戦争目的は「大東亜」地域の国防資源の確保と経済支配だった―という事実だった。さらに「大東亜」圏の国と対等な関係を結ぼうとするなら朝鮮、台湾との関係も避けては通れない。

 結局、脱植民地化という化学反応を通さない限り日本の「大東亜」外交の意味はなかった、という結論に至る。そしてこの問題の締めくくりとして竹内好の言葉を引き、今日的な課題としてアジアを自立的に考える、アジアに水平的な協調関係を築く、アジアの統合原理を考える―という三つの契機として「大東亜」戦時外交をとらえるべきである、と問題提起している。

 講談社現代新書、900円(税別)。


論点別 昭和史 戦争への道 (講談社現代新書)

論点別 昭和史 戦争への道 (講談社現代新書)

  • 作者: 井上 寿一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/11/13
  • メディア: 新書

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