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安倍晋三は裸の王様~三酔人風流奇譚 [社会時評]

安倍晋三は裸の王様~三酔人風流奇譚

 

安倍動画の「気持ち悪さ」

松太郎 ネットで奇妙な動画を見てしまった。星野源の歌に合わせて、安倍晋三首相が犬を抱いて紅茶を飲んでいる。見てはいけないものを見てしまった、という嫌な気分だった。

竹次郎 僕も見た。「うちで踊ろう」というコラボ動画を星野が流しているというので検索したらあたってしまった。

梅三郎 僕は見ていないが、今の話でだいたい想像がつく。

松 ずいぶん反応があったようだ。もちろん、ほとんどが批判的だった。

竹 逆に言うと、この動画で「いいね」を押す人たちってどういう人たちなんだろう。菅義偉官房長官によると、多くの人が「いいね」を押したようだが。

梅 ちょっと、想像がつかない。

松 動画で抱いた違和感とはなんだろうか。

竹 一言でいえば、星野が自分の表現のツールである歌によって多くの人とつながり合おうとしたのに、安倍首相はそれをただ政治的に利用した、ということだろう。

松 それはそうだ。その証拠に、星野は「踊ろう」とうたっているのに、安倍はソファに座って紅茶を飲んでいるだけだ。そして「友達と会えない。飲み会もできない/ただ、皆さんのこうした行動によって、多くの命が確実に救われています」という感傷的で軽薄なコメントをつけた。英語のタイトルは「Dancing on the Inside」で「Dancing at home」でないところも意味がありそうだし、歌詞も「生きて踊ろう」と、切実さがにじんでいる。

竹 たしかに、「家で踊ろう」ではなく「うちで踊ろう」だ。いま指摘したようなことが、安倍の動画とコメントからはまるで伝わらない。むしろ気持ち悪さが漂う。動画の構図とコメントも、いま必死で生き延びようとしている人たちの神経を逆なでしている。

梅 星野は、伝言ゲームのように自作の歌で人をつないでコロナ禍に立ち向かおうとした。その気持ちが、安倍という人間には皮相的にしか理解されていない。そのことは、今の話でよくわかる。

竹 もう一つ、重要だと思うのは、星野はプロなのだから、安倍の側から敬意をもって「使わせてほしい」と断らなければならないはずだ。芸能人、アーチスト同士だと同じ地平にいるから、この動画の場合は不要だと思うが、政治という全く違うレベルで使うのであれば、事前の断りは必要だろう。

松 この問題は「政治と芸術」という古くて新しい問題につながる。芸術、文学、絵画、音楽は、これまで表面のメッセージだけが政治的に利用されてきた。その代表がスターリンであり、ナチスドイツだった。今の時代に無神経にこのようなことが行われるのはとても不可解だし不愉快だ。

竹 安倍がこの問題に浅い理解しか持ってないことは、自粛問題の経緯を見てもわかる。コロナ禍で多くのイベントが自粛させられてきたが、その結果、多くのアーチストが収入減に追い込まれた。それに対して政権は全く冷淡だったが、星野の動画にはちゃっかり乗っかっている。

梅 そういえば、誰だったかアーチストが、同じ感想を言っていた。

竹 「政治と芸術」という大テーマに行かないまでも、日本の行政権力のトップが今しなくてはならないことは、家で紅茶を飲んでいる姿を見せてみんな家にいよう、と伝えることではないのではないか。

 

メルケル演説の格調

松 この点で、ドイツのメルケル首相の演説が心に残った。未曽有の危機をみんなで乗り越えましょうというものだが「苦労して勝ちとった旅行および移動の自由は、絶対に必要な場合以外は制限されるべきではない。そうしたことは、民主主義社会では決して軽々しく決められるべきではない。しかし今、命を救うためにそれは不可欠なのです」と訴え「思いやりをもって理性的に行動し、そのことで命を救うことを示さなければならない」と結んでいる。安倍の動画とえらい違いだ。

竹 ドイツは、詳細はまだわからないが文化芸術分野についても支援を重視すると言っている。日本はこの分野での自粛による損失が500億円余りと推定(415日付朝日)されるが、緊急経済対策に盛られた支援策は数10億円の微々たるものだ。

松 メルケルは東ドイツの出身で、東西二つの体制を生き延びてきたからこそ、民主主義社会での自由の意味と価値を知っており、苦渋に満ちた国民への訴えが響くのだと思う。その点から見れば、何度も言うようだが、なんと安倍動画の無内容で軽薄なことか。緊急事態宣言の際も、20分の演説はしたが心に響く内容ではなかった。今さら期待してもしょうがないが。

竹 ドイツはいま感染者13万人に対して死者が3000人余り。死亡率は2%ぐらいで、数字で見る限り医療崩壊には至っていない。イタリア、スペイン、フランスとは違って、かなり頑張っている。

梅 ドイツには世界に冠たる医療という自負もあるだろう。

松 メルケルの演説は、民主主義社会や人間の存在の深いところでのつながりあいがコロナ禍を乗り越えるカギだ、と訴えている点で、むしろ安倍ではなく星野の歌とつながる。

 

コロナ禍での失敗の数々

松 日本の対応をみると、失敗の連続だった。双璧はクルーズ船での水際作戦の失敗とPCR検査を広げなかった判断だ。しかし、この判断ミスを「ミス」と認め、方向転換するという声がどこからも上がらない。

竹 かつて戦争へと突入した日本人の精神構造はちっとも変わっていないなとしみじみ思う。根拠のない楽観主義、そのうち神風が吹いてなんとかなるさ、という先送り主義。責任をとらなければならない局面になると、途端に自分を卑下する。これは、安倍が国会でよく使う手だが。丸山真男が「無責任の体系」ととらえた精神構造は今も生きている。

梅 コロナ禍がどうなるか分からないが、最終的に失敗した時、だれが責任を負うのか。

竹 緊急事態宣言の時、記者の質問に答えて安倍ははやばやと責任をとらないことを表明した。

梅 その割には、東京都の休業要請で国は随分口を出している。

竹 口は出すがカネは出さない、責任も取らないということだろう。

松 アベノマスクや星野動画への悪乗りも含めて言えば「首相、それはちょっと…」といさめる人間がいない。側近がイエスマンばかりだ。菅、加藤勝信、西村康稔…。安倍は裸の王様状態だ。こんな人間に、国民は命を預ける気にはならない。

竹 中曽根康弘首相は後藤田正晴を官房長官に起用した。二人はタカ派とハト派で、思想的にはまるで違う。それを承知で起用した。それがよかった。そこが中曽根と安倍の懐の深さの違いだろう。



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アンダークラスの登場~濫読日記 [濫読日記]

アンダークラスの登場~濫読日記

 

<格差><階級>の戦後史」(橋本健二著)

 

 韓国映画「パラサイト 半地下の家族」が好評だった。ストーリーは荒唐無稽だが、人心をとらえたのは社会が「上級」「下級」という二つの階級に分かれている、という視点だった。いま世界の多くの人間が、このような階級分化を実感しているのではないか。むろん日本も例外ではない。

 

 格差や階級のギャップが広がっている、と言われ始めて久しい。焼跡ヤミ市と華族階級の没落に始まった戦後社会は、高度経済成長を経てバブル崩壊を経験し、漂流と喪失の平成時代をくぐってきた。庶民の意識は一億総中流から正規・非正規へ、そして下層市民を生み出す中で変わってきた。どう変わってきたか。背景にある社会構造も変化したのだろうか。

 「<格差><階級>の戦後史」はこうした変化を、社会の自画像と呼ばれる社会学の手法と統計データによってあぶりだした。今まで「ふむふむ」と、なんとなく納得してきた(させられてきた?)戦後社会の流れが、数字によってきちんと裏付けられたのである。

 日本社会で「階級」や「格差」が意識され始めたのは2005年ごろから、という。それまで日本は、どちらかといえば「格差の小さな国」と捉えられてきた。そうした「階級」「格差」をテーマにするには、まず言葉の定義がいる。著者は「階級」を①制度化された身分カテゴリー②豊かさや職業によって区分けされたグループ③経済的資源の所有の有無によって定義されたもの―とした。③はもちろん、マルクス主義の流れをくむ定義である。「格差」は量的なギャップがある状態を表す言葉で、特別な価値観はこめられていない。

 こうした定義に基づき、著者は現代社会の最大公約数的見解として①資本家②労働者③新・旧中間層―という四つの階級図式を提示する。新中間層はいわゆるホワイトカラー、旧中間層は農業、自営業の従事者である。

 

 これらを出発点にさまざまな統計データが用いられる。最も使われたのは社会階層と社会移動全国調査(SSM調査)データ。社会学者グループを中心に、10年ごと19552015年に実施された。難点は75年まで対象が男性に限定されたことだ。国勢調査なども活用された。

 著者は大きな流れとして、戦後社会の格差を「縮小から拡大へ」とする。終戦直後、増えたのは旧中間層で、復員した人たち(500万人といわれる)が生活の糧を得るため就いたのが農業だったことが大きい。やがて高度経済成長が始まり労働者、新中間層へと「階級間移動」が始まる。言葉で書けば変哲もないが、これらが統計データとそれに基づくグラフ、表で表現される。

 こんなデータもある。東京大空襲での区ごとの死亡率。最も高い江東区は14.3%、低いのは世田谷区で0.03%。概して町工場地帯が高く、農村もしくは新中間層が住むあたりが低かったようだ。戦争被害にも地域格差があったのだ。あるいは終戦直後の消費水準をみると、農村が都市を上回った。ヤミ経済が横行した時代、食糧と引き換えに持ち込まれた物資が農村を潤した。

 1974年、「東アジア反日武装戦線〝狼〟」による三菱重工ビル爆破テロがあった。この頃は「一億総中流」と呼ばれた。「狼〟」の主張と「一億総中流」意識には、奇妙な符合があったという。総理府世論調査によれば「中流意識」は1973年に90%を超えた。国民のほとんどが「中流」と感じたのである。このことに独自の解釈を加えたのが「〝狼〟」だった。この豊かな小市民的生活は、植民地人民の犠牲の上に成り立つものではないか―。同じ「中流意識」を出発点としながら、たどり着いた地点は全く違った。しかしこのころ、世界の主だった国の多くが「総中流」意識を持っていたと、著者は各種データをもとに指摘する。

 

 1995年、阪神大震災が起きた。ここでも所得格差による被害の違いが浮き彫りになった。生活保護受給者の死亡率は平均の5倍を上回り、住宅全壊による罹災証明申請は年収が低いほど多かった。これを受けて、ある市民団体の報告書は以下のように書いた。

 

 平等社会、一億総中流階級―なんてどんなにウソッパチだったか。

 

 破たんした「一億総中流」幻想の果てに、我々は何をみたか。低成長時代に突入して、企業は雇用環境の「改善」に取り組んだ。非正規雇用の拡大である。

 19982008年の非正規雇用の増加ぶりがグラフで示されている。目立つのは2544歳男性の急増で、1995年ごろの40万人前後が2008年には160万人に。以前なら高校か大学を卒業後、普通に就職していた若者層が非正規として働くようになった。

 このことを如実に表したグラフもある。初職時の所属階級を2015年データで出生年に分けて棒グラフにしたもので、非正規労働と未就業が確実に増加、199094年生まれはそれぞれ26.4%、4.1%で、合計すれば30%を超える(学生は含まず)。著者は「経済格差の構造が大きく変わった」といい、そのことを端的に示すのが貧困率である。2005年で正規労働者8.7%に対して非正規は実に29.2%。ちなみに無職は37.2%だった。冒頭で階級を四つに分けたが、この構図自体が塗り替わったのである。

 貧困は家庭のかたちにも影響した。無配偶者比率をみると、30歳代男性で正規労働者68%、非正規30.2%と、倍以上の開きがある。ほかの世代でも傾向は同じだ。もう一つ、初職時に非正規だった男性の現職を年代別に見たデータ。初職時も現在も非正規が20歳代では圧倒的に多く61.8%である。30歳代でも27.3%。つまり、最初から非正規という人が若い世代に増えてきている。これらを指して著者は「新しい下層階級の誕生をみてとることができる」とする。

 「アンダークラス(階級以下)」と名付けられたこの新しい階級はどのような顔をしているか。いわゆるパート主婦を除くと、総数は2017年で900万人余り。年収は正規労働者370万円に対して59歳以下(年金受給者を除いた)で186万円。しかし、高齢者アンダークラスはまだ経済的に恵まれているといえる。年金受給資格を持つ人が多いからだ。しかし、次の年代は正規雇用の経験さえない人が増えてくる。年金も資産も持たない高齢アンダークラスが2030年代には全貌を表すという。その時、時代はどんな表情を見せるだろうか。

 河出新書、1100円(税別)。


〈格差〉と〈階級〉の戦後史 (河出新書)

〈格差〉と〈階級〉の戦後史 (河出新書)

  • 作者: 橋本健二
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2020/01/25
  • メディア: 新書

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良心的兵役拒否者を描く~映画「名もなき生涯」 [映画時評]

良心的兵役拒否者を描く~映画「名もなき生涯」

 

 主義のためでも思想のためでもなく、まして国家のためでもなく戦争に反対した、いわゆる良心的兵役拒否者を描いた。美しくも淡々とした日常。拘束された後の重ぐるしさ。それらが3時間近く展開される。起伏やメリハリに欠ける、といった不満は出てくるかもしれないが、一方で重厚さと正統派のつくりは一見の価値ありといえる。

 1939年のオーストリアの山あいの村ザンクト・ラーデグントに住むフランツ・イエガーシュテッター(アウグスト・ディール)は、妻ファニー(ヴァレリー・バフナー)と3人の娘とともに平穏に暮らしていた。しかしその前年、オーストリアはナチスドイツに併合され、戦争の足音は確実にこの村にも迫っていた。

 40年にエンス基地に招集され軍事訓練を受けたフランツは、キリスト教の教えに従い罪のない人間を殺すことに疑問を覚え、周囲にも漏らす。しかし、若者は次々と戦争に駆り出され、村人の気持ちもたかぶり荒んでいった。そんな中、戦争のための寄付金を断り、神父から「祖国への義務」と説かれても「兵役拒否」を変えないフランツは「裏切者」と呼ばれ、共同の農作業さえ拒否された。

 そんなフランツに召集令状が届く。出頭したもののヒットラーへの忠誠を拒み、囚われの身に。1943年のことである。軍事法廷が開かれ、神父や弁護士から「嘘でもいいから忠誠を誓えば命は助かる」と助言され、判事(ブルーノ・ガンツ)からも内々に「だれもお前の声を聞いてはいない。無駄なことだ」と諭されるがフランツは考えを変えなかった…。

 山岳映画かと思うほど、オーストリアの美しい自然の描写が印象的。その中で流れる家族とのゆったりとした時間。これらに囲まれたフランツのまぎれもない愛郷心が、そのまま国家愛やナショナリズムに結び付かないことの不幸。それが描きたかったことであろう。当初は信仰心から兵役を拒否したフランツだが、最後には「キリストは犬死だった」「この2000年は無駄な2000年だった」と宗教への懐疑さえ口にする。

 念のためいえば、日本国憲法19条には「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」とあり、戦時下でも良心的兵役拒否は守られる。そのことの意味と重さを知るだけでも、観る価値はある。

 2019年、米独合作。監督はテレンス・マリック。実話に基づくという。ジョージ・エリオットの詩からとったというタイトル(A HIDDEN LIFE)はとてもいい。歴史は英雄ではなく、名もなき人々によってつくられたのである。



名もなき生涯.jpg

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