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上級国民と下級国民の闘い~映画「パラサイト 半地下の家族」 [映画時評]

上級国民と下級国民の闘い

映画「パラサイト 半地下の家族」

 

 「上級国民 下級国民」という言葉がある。かつて「階級」という言葉がマルクスやエンゲルスによって定義されたが、生産手段を持つものと持たざる者を指していた。現代の「上級国民」もしくは「下級国民」は新自由主義がもたらしたとされる。

 その上級国民と下級国民の間にそびえる越えがたい壁を描いたのが「パラサイト」である。

 「犯罪一家」という点では是枝裕和監督の「万引き家族」に似ていなくもない。しかし、それはあくまで入り口部分だけで出口は全く違っている。

 元タクシー運転手キム・ギテク(ソン・ガンホ)の一家は、半地下の住居に住んでいた。朴正熙大統領の時代、朝鮮戦争に備えて防空壕代わりに造られたといわれ、現代では日当たりの悪さや非衛生的、雨が降れば汚水が流入するなどの理由で貧しい人たちの専用になっていた。

 ある日、浪人中の長男ギウ(チェ・ウシク)に親友から家庭教師の話が飛び込んできた。IT企業の社長パク・ドンイク(イ・ソンギュン)の娘ダヘを教えてくれないかという。大学生を偽ってパク家に潜り込んだギウは、妹ギジョン(パク・ソダム)を、米国留学経験を持つ美大生と紹介、パク家の長男ダソンの美術教師として引き入れた。さらにギテクをお抱え運転手に、母親のチュンスク(チャ・ヘジン)を家政婦に仕立て上げた…。

 パク家の妻ヨンギョ(チョ・ヨジョン)は若く美しかったが人が良く、キム一家の詐術にまんまとはまっていった。…と、上級国民に寄生(パラサイト)するスパイ映画並みの鮮やかな手口が展開され、ここまでで一つの物語だが、実はこれはほんの始まりに過ぎなかった。

 パク家の豪邸は元々ある建築家の持ち物で、それを家政婦ごと購入したのだった。その家政婦ムングアン(イ・ジョンウン)は既に追い出したのだが、パク家がキャンプのため家を空けたある夜「忘れ物がある」と訪ねてきた。話を聞くと、この豪邸にはパク家の知らない地下室があり、借金取りに追われた亭主が隠れ住んでいるという。

 家政婦と亭主を追い出そうとした時、パク一家が豪雨の中、キャンプを中止して帰ってきた。窮地のキム一家は、ムングァンと亭主を再び地下室に閉じ込めた。

 帰宅したパク一家に気づかれぬよう半地下の家に帰ってきたキム一家は、豪雨で汚水まみれになった我が家に茫然とする。そして、地下室に残した2人を「始末」しなければならないと、再び豪邸に舞い戻る。

 ここからは、キム一家と元家政婦ムングァン夫婦との抗争である。結末を詳しく書けば興ざめなのでここまでにするが、まず下級国民同士の闘いがあり、下級国民対上級国民の闘いに移る。しかし、ここでの階級差はかつてマルクスが構想した生産手段の所有、非所有を根拠とするものではないので(おそらく富を基準にした格差であろう)、明確な組織論が存在しない。そのため、壁は非妥協的・組織的な闘いによってではなく「自己責任」という新自由主義的イデオロギーによって突破される。つまり、上級国民になることが階級格差を乗り越える最上の方法だ、という結論に到達する。

 豪邸に潜り込んだキム一家が「におい」によって越えがたい壁を意識させられるところなど、実にうまい。そして、この「におい」による壁を指摘したIT社長はギテクに刺殺される。話が前後したが、ここでは、暴力によって「格差」という壁は突破される。

 2019年、韓国。三段ロケットのようなパワフルなつくり、さすが韓国映画だ。

 


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スクリーンを通した時代論~濫読日記 [濫読日記]

スクリーンを通した時代論~濫読日記

 

「映画の戦後」(川本三郎著)

 

 タイトルは「映画」の「戦後」で「戦後」の「映画」ではない。どこが違うのかはお分かりと思う。著者が書きたかったのは「映画」を通して見た「時代」で、「戦後」という時代に区切られた「映画」ではなかった。このことは「あとがき」でも触れている。

 

 ――私の批評は、映画をその時代に置いて見ることが基本になっている。映画を独立した表現テキストとして見るよりも、そこにどういう時代状況が反映されているのか、映画と時代の関わり、接点が気になる。

 

 川本が「映画」というスコープを通して見た戦後とはどんなものだったか。読後つくづく感じたのは、川本と私の感性のありようのなんと似ていることか、ということだった。

 

 まず「戦後」を見るフィールドを大きく日本と米国に分ける。日本映画の中では高倉健、小津安二郎、黒澤明、松本清張、高峰秀子、杉村春子あたりがつづられる。「男はつらいよ」も見逃せない。米国映画ではクリント・イーストウッド、エリア・カザン。そしてハリウッドに吹き荒れた赤狩り、戦後の米国に一貫して影を落としたヴェトナム戦争。

 

 戦後の一時期、「やくざ映画」というジャンルが確固としてあった。高倉健という「ヒーロー」のかたちを分析する中で川本は二つの視点を提示する。一つは、やくざ映画が描き出したのは底辺の労働者であり、ほとんどプロレタリア文学に通底するものだった、という点。もう一つは、かたぎに詫び続けるヒーローであり、それゆえに苦悩するヒーローだった、という点。長谷川伸が描き出した股旅物を引き継ぐ日本伝統のヒーロー像であったという。同感である。1970年ごろ、場末の映画館で高倉健が苦悩の末にドスをひっさげ池辺良が寄り添うとき「異議なし」と客席から飛んだのを思い出す。

 

 小津安二郎では、紀子三部作といわれる「晩春」「麦秋」「東京物語」を取り上げ、小津作品に影を落とした「戦争」を探った。小津自身、戦地へ向かったが、そのことはこれまでほとんど触れられていないことも記されている。この部分であえて言えば、与那覇潤著「帝国の残影」(2011)が兵士としての小津の実像に迫っている。さらに「東京暮色」を評価する記述もある。いつの日か、川本にぜひ触れてほしい書である。

 

 「男はつらいよ」は、1960年代から1995年までつくられた。第1作はやくざ映画全盛のころであり、1995年は阪神大震災、地下鉄サリン事件の年である。この間、高度経済成長があり、ヴェトナム戦争があり、バブル崩壊があった。直後には民主党政権ができ、9.11米国同時テロがあった。このころを戦後の転換点とする向きは多い。こうした時代を寅さんは走り抜けた。時代の変転の中で、一貫して存在感を持ちえたのはなぜか。

 川本によると、1980年から89年まで、山田洋次監督は実に18本の「男はつらいよ」をつくった。しかし、これは時代とシリーズがピタリと歩調を合わせたからではなかった。むしろ80年代は、「山田洋次と時代が最も離れた時期ではないか」と川本はいう。高度経済成長の時代、古き良き町を寅さんが歩く。消えかけた人情を分かち合う。そんな人情も町も幻想の中にしかないことを百も承知で。

 葛飾はいつも懐かしい寅さんの故郷として登場する。ここで川本はひとつの事実を上げる。葛飾が区になったのは関東大震災の後、昭和7年だった。新開地で、震災で被害に遭った人たちが移り住み、さらに東京大空襲の後、焼け出された人たちが避難してきて新下町をつくった。葛飾は避難の場所だったのである。周囲の繁栄から取り残されたような、懐かしさを覚える町。この葛飾・柴又の持つ風情がそのまま「寅さん」というシリーズの持ち味になっている。浅丘ルリ子演じるドサ回りの歌手や、松坂慶子演じる場末の芸者が思いあぐねて避難する場所。それが「寅さん」という存在でもあった。だからこそ、経済成長の時代もバブルの時代も「寅さん」は大衆の心をつかみ続けた。

 

 けっしてリベラルな思想の持主には見えないクリント・イーストウッドだが、川本は「最後の西部劇スター」として賛辞を送る。修羅場に向かう健さんのように、まず馬上の姿が美しい。武骨で、孤独である。川本は、イーストウッドの「孤独」を「個独」と表現する。西部の男は自主独立、セルフ・メイドの男でなければならない。自分以外、頼るものはない。そんなただならぬ雰囲気をイーストウッドは備えている。しかし、このことは手放しで喜べない側面も持つ。

 川本は、イーストウッドが米国でスターの階段を上る時代を、ヴェトナム戦争の時代と重ね合わせる。イーストウッドの「個独」(=自警主義)は「ダーティー・ハリー」につながり、ヴェトナム戦争の泥沼化が産み出すニヒリズムと共振した。だからイーストウッドはいつも不機嫌な顔=汚れちまった悲しみ=をしている、と川本は言う。 

 

 ハリウッドを襲った「赤狩り」は、表面的にはリベラルな左翼に対する保守層の批判、もしくは集団ヒステリーと受け止められた。ここに川本は、上流階級に対する大衆の反乱という視点を持ち込む。1970年代に既にこのことを指摘しており(初出は72年)、卓見であるように思う。今の時代のトランプ現象にそのままつながるからだ。右とか左とか、非転向=善、転向=悪の単純な構図に落とし込めてはならないという。そして、この構図の中から導き出した元ギリシャ移民、エリア・カザン論(「異邦人の裏切り」)は秀逸であり、米国映画には珍しい影のある名作を生み出した背景に迫っている。「波止場」も「エデンの東」も、カザンの「裏切り」「転向」後のものなのだ。川本はこう指摘する。

 

 ――それはいわば、「移民から見たアメリカ」であり「仲間から孤立した人間の目で見たアメリカ」である。明るいところから見えないが暗いところから明るいところは見える。「自由」や「豊かさ」の中にいては見えなかったアメリカの反動性や悪が、自ら泥にまみれて暗い場所に追い込まれることによって逆に鮮明に浮き上がってきたのである。

 

 川本が書いているように、エリア・カザンは「夜の作家」なのである。

 七つ森書館、2200円(税別)。


映画の戦後

映画の戦後

  • 作者: 川本 三郎
  • 出版社/メーカー: 七つ森書館
  • 発売日: 2015/05/15
  • メディア: 単行本

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蒼井優の「いいおんな」ぶりに支えられ~映画「ロマンスドール」 [映画時評]

蒼井優の「いいおんな」ぶりに支えられ

~映画「ロマンスドール」

 

 原作者タナダユキが自ら監督して映画化した。原作は読んでいないので、映画についてのみ語る。

 タイトルは「ラブドール」から来ている。昔風に言えばダッチワイフ。美大を出てフリーターをしていた哲雄(高橋一生)は、ひょんなことからラブドールの製作業者に雇われる。シリコンのドール製作に取り組むが「巨乳より美乳を作れ」という経営者(ピエール瀧)の一言で、生身の女性のバストを型どりすることに。「医療用」と偽って募集をかけ、応じた美術モデルの園子(蒼井優)と恋に落ちた哲雄は結婚し、所帯を持つ。

 年もすると、仕事に追われて哲雄は園子をないがしろにする。実は哲雄は、結婚後もラブドールのことは話してなかった。夫の秘密に呼応するように、園子もまた秘密の行動をとる。その秘密とは、自らを蝕むがんのことだった。そんな中で哲雄は仕事のことを打ち明け、園子は「知っていたわ」と笑った。そして、がんのことも明かした。

 クオリティーライフを優先するよう医者に告げられ、二人の生活は再び愛に満ちたものとなった。しかし、結局園子は死を迎える。死の直前、園子が哀願したのは、自らの体を再生してほしいということだった。哲雄は一心に取り組み、園子とウリ二つの「ドール」を作り上げた…。

 ざっとこんな話だが、多少の違和感がないでもなかった。

 一つは、愛妻の体を不特定多数の欲望処理のための「ラブドール」として再生することに葛藤なり心理的なハードルはなかったのだろうか。二つ目、亡くなった妻とそっくりな「ドール」を作れば、それを見るたびに蘇る「つらさ」に耐えきれるのだろうか(この心理は少し見られたが、それほど簡単に越えられるハードルとも思えない)。三つ目、どれだけ本物そっくりに作ろうと偽物は偽物である、という違和感のようなものが描かれていないのが不思議だった。

 昨年末のNHK紅白歌合戦で、AIを使った美空ひばり人形が登場した。似ているかどうかより、薄気味悪さと、ある種の無意味さを観るものに感じさせた。この映画の末尾でも、そんな心理状態が生まれて不思議ではなかった。そうした「ひねり」がいくつかきいていたら、もっと深さを持つ作品に仕上がったように思う。「ふがいない僕は空を見た」で、コスプレに意味を持たせることに成功したタナダユキだけに、期待したのだが…。

 いくつかの違和感と不満点を残しながらも、この映画がそれなりにいい味を出していたのは、ひとえに蒼井優の「いいおんな」ぶりが際立っていて、現代のファンタジーになりえていたからだと思う。

 2020年、日本。

 

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淡々と、しかしずしりと来る秀作~映画「リチャード・ジュエル」 [映画時評]

淡々と、しかしずしりと来る秀作

~映画「リチャード・ジュエル」

 

 アメリカン・ヒーロー、板子一枚下は地獄、という話。クリント・イーストウッド監督にはこの手のものが数多くある。まず頭に浮かぶのは「ハドソン川の奇跡」。チェズレイ・サリンバーガー機長は、鳥が飛び込んだため二つのエンジンとも同時停止するという事故に遭遇するが、永年の経験と機転によってハドソン川に不時着水する。英雄と持ち上げられたが、乗客を不要な危険にさらしたと国家安全運輸委員会の調査が入る。

 「リチャード・ジュエル」は、1996年のアトランタ五輪の最中、市内の公園で起きた爆破テロを素材にした。警備にあたったリチャード・ジュエルがベンチ下のバッグの中に時限爆弾を発見、周囲の市民を遠ざける措置をとったが間に合わず2人が死亡、100人以上が負傷した。

 FBIが捜査に入り、事件直後に「英雄」と持ち上げられていたリチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)自身に容疑をかける。捜査情報をリークされたアトランタ・ジャーナル紙の女性記者キャシー・スクラッグス(オリヴィア・ワイルド)は1面に記事を掲載(この部分「マクラ営業」と描写され、同紙は抗議している。真相は今のところ不明)、リチャードはたちまちメディアスクランブルの対象となってしまう―。このあたり、英雄から一転地獄を味わう「ハドソン川―」の機長と同じ運命をたどる。

 窮地に立ったリチャードに救いの手を差し伸べたのは、たまたま知り合ったワトソン・ブライアント(サム・ロックウェル)。かつては中小企業庁の雇われ弁護士だったが、思うところあって個人事務所を立ち上げたばかりだった。

 この事件、今も覚えている。爆破テロ、警備員の逮捕、そして無実。細かいところは分からないが実話である。このエピソードを力まず淡々と描いた。そして濡れ衣を着せられたリチャードは決して正義の人ではなく、警察官に憧れる威張りたがり屋の太っちょの、どこにでもいそうなキャラクター(実際の人物もこれに近かったように記憶する)をあてた。イーストウッドの職人芸を感じさせる。

 映画の運びはあくまでも淡々としているから、結末のリチャードが青天白日の身になるところも極めて静かである。だからこそ観るものに感動を与える。

 おりしも、カリスマ経営者といわれたカルロス・ゴーン容疑者が違法な手段を使って海外に逃亡した。「リチャード・ジュエル」の取り調べで弁護士が同席するシーンがあるが、確かに日本ではありえない。些細なところは違うにしても、FBIの捜査官に対してリチャードが、自分の容疑に根拠はあるのか、これはゲームではないか、と反論する場面がある。信念をもって闘えば道は開ける、といかにもアメリカ的ではあるが、ゴーンさんも見習ってほしかったな。

 決して力むことなく、それだけにずしりと来るイーストウッドの映画である。2019年、アメリカ。

 


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この有限な地球を守るには~濫読日記 [濫読日記]

この有限な地球を守るには~濫読日記

 

「現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来」(見田宗介著)

 

 米ソ冷戦が終結して以降、人類は世界像がつかめないでいる。サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」、エマニュエル・トッドの「帝国以後」などが一定の射程で世界を見通したが、決定的ではなかった。そんな中でこの「現代社会の理論」を手にした。

 岩波新書1冊分と軽量だが、内容は外見と同じく軽量とはいえない。

 まず目につくのは、マルクスを肯定的に評価しながらその先に独自の理論を付け加えたことである。マルクスは1818年に生まれ1883年に没した。見田はこの時代背景に注目する。確かに、マルクスは「短い20世紀」(エリック・ホブズホーム)の帝国主義戦争と革命の時代、そして国家総動員体制の時代を予見したが、1950年代以降の大量消費・大量生産の時代を知らなかった。見田の見晴るかす時代の骨格はここに視点を置いている。すなわち、大量消費・大量生産がもたらす物質文明の先に、高度な情報化/消費化社会を見出すことはできないか、という問題意識である。

 マルクスは、物質的需要の有限性が市場の縮小を生み、恐慌を招き、新たな需要喚起のための戦争が起きるとした。市場の拡大=帝国主義、需要の喚起=帝国主義戦争という考え方である。しかし、見田は第2次大戦後、こうした観点からの戦争は起きていないとし(この認識は果たして正しいか。おそらく異論もあるだろう)、背景として新たな需要喚起のための手法の発見があるとした。これが情報化/消費化社会の発見である。

 マルクスは生産主義による市場の拡大と需要の充足を考えた。しかし、これには過去の歴史が物語るとおり、恐慌と戦争が不可避のものとして立ち上がってくる。高度な情報化社会によって、物質的必要性からではない、新たな需要喚起ができないか―。

 そこに「モード」と「無限の市場」を見出したのである。

 この理論には、おそらく左右両方から批判があるだろう。見田自身も末尾で触れていた。あまりにも理想主義ではないか。あるいはあまりにも現実肯定ではないか…。どちらもが批判の対象としたのは、市場経済を認めるという点である。市場という「猛獣」を、人間は従わせることができるのか。

 しかし、市場経済を認めなければ、どんな方法があるというのか。個人の自由をも規制する計画経済が有効性を持つ時代はもう来ないだろう。そうであるなら、もはや有限であることがはっきりした資源と環境のために、市場という猛獣を、鞭を使ってでも従わせるしか方法はないように思う。もし、高度な情報化/消費化社会であれば、そこは鞭なしで、人間の知恵で未来を見通すことはできないか…。これが、見田の描く世界像である。

 書の構成は極めて簡素で、かつ原理的である。まず、情報化/消費化社会の必然的な未来について語り(第1章)、次にその社会がもたらす「影」の部分に触れる(第2、3章)。最後の第4章で、光と影を統合する理論について語る。

 第1章では20世紀の米国を念頭に「モードが無限の需要を自己創出する」というテーゼを引き出すあたりが魅力的である。米国でそれが開花したのが1950年代であった。第2、3章では、物質の大量生産と大量消費に依拠した資本の論理が行き着いた地球資源と環境の有限性、そして南北の貧富の格差(見田は、留保付きで「南北格差」という言葉を使っている)。南北問題では、資本と市場経済のもとでは、人間は二重の疎外を受けている、という。すなわち、まずは土地や自然から疎外され、次に貨幣経済の中での疎外(つまり貧困)を受けている、とする。人間は貨幣がなくても生きることは可能だが、そうした選択を拒まれ、かつ貨幣経済下での生活を強いられる中で貧困がある。この辺は、「幸福とは何か」を考えさせられ、見田のオリジナリティーがあふれている。

 見田社会学では「幸福」という概念が重要視されているように思うが、幸福は必ずしも貨幣によって(言い換えれば金銭的な富によって)もたらされるわけではないのだ。

 第4章での核心は、「消費」という言葉の持つ二重性である。見田は、バタイユとボードリヤールが使う「消費社会」という言葉の微妙な位相差について語る。バタイユのそれはconsumation(激しい高揚)、ボードリヤールはconsommation(完遂、成就)である。バタイユの概念は祝祭社会に近く、ボードリヤールは物質社会に近いように思える。いうまでもなく見田は、バタイユのそれに近い情報化/消費化社会を見ている。この微妙な差異の中に、現代社会の行く末が見出されるのではないか、新たな無限市場が見出せるのではないか―言い換えれば必要の地平へではなく、歓びの地平へと着地する道筋はないか―という。

 先に触れたように、この論には賛否両論があるだろう。しかし、現状のままでは地球は行き詰ってしまうことも、また確かなことなのだ。そうしたことを考えるには、極めて刺激的な1冊。24年前に第1刷が出て、いま33刷である。

 岩波新書、720円(税別)。

 

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)

  • 作者: 見田 宗介
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1996/10/21
  • メディア: 新書


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これは「監視」か、それとも「眼差」か~濫読日記 [濫読日記]

これは「監視」か、それとも「眼差」か~濫読日記

 

「安心のファシズム―支配されたがる人々―」(斎藤貴男著)

 

 教育や医療といった公共サービスは市場によって担われ、監視機能と保険会社によって生活が保障される<超帝国>が出現すると予言したのは哲学者ジャック・アタリだった【注1】。生活リスクに相応の保険料を支払い、同時にリスク回避のための規範を求められる。その通り行動していたかは監視カメラで確認される。被保険者であるオブジェ自体にもセンサーが埋め込まれ、行動記録は整理され記録される―。

 

 こうした近未来像に、斎藤貴男もまた警鐘を鳴らす。しかし、来るかもしれない監視社会を危惧しているだけではない。監視されることを大衆自身が求め、かつ容認しているのではないか、という。

 斎藤はまず、自動改札機と携帯電話に着目する。車いすの通れない改札口。しかし、人々は弱者の困惑には目もくれず狭い改札口へと誘導され、ICを埋め込んだカードをかざす。それは群衆の行動記録、ビッグデータとして集積され、何らかの活用がなされる。

 一方で、そうしたデータを踏まえて魅力的な宣伝がなされる。大衆一人一人に購買意欲をそそるメッセージを伝えるのは携帯である。駅を降りた個人に、近くの店で何が売られているかメールが送られる。そんな時代も遠くはない。そうした誘導を大衆自身が求めているのではないかと斎藤はいう。

 サイバネティクスという言葉、「操舵の術」を語源とする。ここでは、文字通り大衆を「操舵」する技術としての意味を持つ。両輪が自動改札と携帯、というわけだ。特に携帯はもはや通信ツールではなく生理器官化している、といっても過言ではないと斎藤は言う。

 そのうえでベストセラー「ケータイを持ったサル」の著者、正高信男・京大教授の言葉を引き、携帯は公共空間を拒絶し私的空間に閉じこもる若者意識につながっていると指摘する。携帯によって生まれる「つながってる」意識は実は公共空間を伴わない意識であり、最終的には国家によって支配された空間に置かれることを意味する、と危惧する。そして「自動改札機と携帯電話」の章は、こうくくられる。

 

 ――ケータイがなければ何もできない、暮らしていけない時代がやってくる。巨大なシステムに操られることが苦にならない、むしろ心地よく感じられる時代が。

 

 監視カメラは今日、多くのメディアで「防犯カメラ」と言い換えられる。筆者(asa)はかねがね、違和感を持ってきた。設置カメラに本来、防犯機能はなく、あるのは監視機能である。監視することで「防犯」の役割が果たされることはあろう。しかし、初めから「防犯カメラ」といってしまえば、監視することで生まれるデメリット(プライバシー侵害や肖像権の侵害)は切り捨てられ、効能ばかりがうたわれることになる。

 斎藤も、その点に気づいている。もっとも、彼は防犯と監視を同列に見ているのだが。この書では、杉並区が設置を前に開いた専門家会議の議論が詳細に紹介された。回を追って人権侵害を危惧する声が排除され、ほとんど国民皆犯罪者論とでもいうべき声が大きくなっていく様子がよくわかる。天下の往来は警察の支配下にでもあることになり、集められたデータは顔認証システムによって振り分けられ、自動改札や携帯のビッグデータとともに巨大な監視社会を築いていく。

 さて、あなたはこうした近未来像を是認するか、拒否するか。単なる杞憂だと笑って通り過ぎるか。

 斎藤は、自説とは少し違う視点として社会学者・大澤真幸の言葉を引いている。

 

 ――われわれは、監視されていることを恐れ、そのことに不安を覚えているのではなく、逆に、他者に――われわれを常時監視しうる「超越的」とも言うべき他者に――眼差されていることを密かに欲望しており、むしろ、そのような他者の眼差しがどこにもないかもしれないということにこそ不安を覚えているのではないだろうか。

 

 これに対して斎藤は、特に新自由主義社会では、監視とは権力とビジネスが渾然となったもので、監視を認めれば社会は「するもの」と「されるもの」に差別化される、という。そのうえで、果たして今日の社会で、我々が「自由」と思っているものは本当にそうなのか。権力によって操作された「自由」ではないのか、と問う。

 第1刷は15年前だが、内容は驚くほど古さを感じさせない。例えば小泉純一郎首相(当時)についての寸評。

 ――ちょっと類を見ないナルシシズム。他者の存在に対する無邪気なまでの無関心。剥き出しの選民意識。それでいて、より上位の権力には躊躇なく尻尾を振ることができる、漫画のような人間が実在し、この国を差配しているという現実が、にわかには信じられない。

 

 現下の政治状況への評といっても通用する。

 

【注1】「21世紀の歴史」作品社

岩波新書、税別820円(税別)。

 

安心のファシズム―支配されたがる人びと (岩波新書)

安心のファシズム―支配されたがる人びと (岩波新書)

  • 作者: 斎藤 貴男
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2004/07/21
  • メディア: 新書


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文明とは何かを多角的に語る~濫読日記 [濫読日記]

文明とは何かを多角的に語る~濫読日記

 

「超高層のバベル 見田宗介対話集」

 

 タイトルは「バベルの塔」の神話からとった。人間が神の領域に近づこうと無限に高い塔をつくったが、怒った神が壊してしまった、という。人間の傲慢さを戒めたものだが、見田はここに脱神話の視点を持ち込み「無限の進歩」という近代の幻影をみた。即ち「超高層のバベル」とは、自然を離れ無理を重ねて壊れかかった現代文明を指している。それは個人の内部に誰もが持つ「軋み」でもある。

 現代文明とはなんであり、そこで生きる現代人が見ている風景とはどんなものか。11人との対話を通して探ったのが、この「超高層のバベル」である。あらためて11人のリストをみると、その多様さに驚く。心理学者、小説家、思想家、政治学者、脚本家、文芸評論家。三浦展のように社会デザイン研究者と紹介された人物もいる。その多様さは、見田という社会学者の視点の多様さを表してもいる。そのすべてを紹介できないので、印象に残った人物だけを取り上げる。

 1985年、戦後40年という節目に行われた大岡昇平との対話。ここで見田は、戦後を振り返って2波にわたって激動の7年間があったと指摘する。1945年からと、60年代後半。1波は戦後アプレゲール、2波はその子供の世代で「世代の循環」が起きているという。1997年に行われた吉本隆明との対話。近代以降の人間は外に自然、うちに精神があるとの前提で物事を考えるが、賢治は自然にも精神があり、うちにも自然があると考えたのではないか。ともに賢治論を持つ見田、吉本の一致した見方のようである。

 1971年に行われた黒井千次との対話。虚無を抱えながらも熱中を求める若者の心理分析が面白い。資本主義とはなんであるか、完全ではないとしても大枠で理解して社会に出た場合、仕事にも組合運動にも乗り切れない(非常にわかる心理だ)。すると、むしろ冷めながら熱中する、道具として正確に機能するという存在になる。これは、最初から熱中している人間より、管理する側としては使いやすい(我が軌跡を振り返ってみても、納得のいく指摘だ)。では、どうすればいいか。本当の熱狂(狂気)を受け止める組織、ある種の亡命者を受け入れる、もう一つの組織がありうるのかどうかと黒井は問う。

 2016年の加藤典洋との対話。見田は真木悠介というペンネームと本名を使い分けているが、この「使い分け」に加藤はこだわっている。そこで、見田の答えは、見田という名前にまつわる過去のイメージに縛られたくなかった、自分を純化して解放する方法としてのペンネームだった、すなわち「家出なんですね」という。加藤は逆の視点で、見田にとって社会学は拘束衣のようなもの、と指摘していた。ともに面白く、よく分かる表現である。

 死者と生者、文明と存在論、そして戦後論、多くのことが刺激的に多様に語られている。

 講談社選書メチエ、1900円(税別)。


超高層のバベル 見田宗介対話集 (講談社選書メチエ)

超高層のバベル 見田宗介対話集 (講談社選書メチエ)

  • 作者: 見田 宗介
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/12/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

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