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ヨーロッパの古層をはがす~濫読日記 [濫読日記]

ヨーロッパの古層をはがす~濫読日記


「第二次世界大戦秘史 周辺国から解く独ソ英仏の知られざる暗闘」(山崎雅弘著)


 ロシアのウクライナ侵攻が世界を揺るがしている。問われているのは、第二次大戦後に生まれソ連崩壊とともに膨張したNATO体制である。戦後ヨーロッパはどのようにして東西に分かれたのか。なぜ東欧圏の多くはソ連崩壊後のロシアにではなくNATOの側に付いたのか。ウクライナ危機の背景にあるそうした問題を解く手がかりの一つに、この「第二次大戦秘史」はなるだろう。
 私たちは、現代史の大きな流れを米ソ英仏+中国対日独伊枢軸三国の構図の結果として理解してきた。しかし、今日の動きを見ると、それだけではすり抜けていく多くの問題があることも確かなのだ。

 ウクライナ侵攻で、徹底抗戦でなく降伏も選択肢とする意見がメディアで語られた。日本の戦争末期を念頭に置いていた。しかし、いうまでもなく外敵に支配された経験を持たない日本(GHQの7年を例外とすれば)と、絶えず外敵の脅威にさらされたヨーロッパの小国とは、大きく事情が異なる。
 そこで例に出されるのが、フィンランドとバルト三国の場合である。フィンランドはソ連の無理筋の領土交換要求を拒み二度、過酷な戦争をした。勝利とはいかなかったが、結果としてソ連支配を免れた。バルト三国は駐留ソ連軍を守るという名目での侵攻(ウクライナと同じ手口)に白旗を上げ、以降ソ連とドイツの支配を許した。こうしたことも歴史を追う中で確認できる。
 ウクライナ難民を200万人以上受け入れたポーランドの動きは、周辺国でも際立つ。なぜこれほど人道支援に熱心なのか。カギは、ソ連によって受けた傷の深さにある。象徴的な事例は「カティンの森事件」とワルシャワ蜂起の際のソ連軍の対応にある。
 ソ連領西部のカティンの森近くで1943年、4000体以上のポーランド将校の遺体が発見された(後に他地域も含め2万2000体に)。ソ連は侵攻してきたナチスドイツの犯行と主張したが1990年、ゴルバチョフ大統領がグラスノスチ(情報公開)の一環で内務人民委員部(秘密警察)ベリヤ長官によると公式に認めた。
 1944年、ポーランド国内軍が蜂起したが、作戦の失敗もあり形勢は思わしくなかった。ワルシャワ郊外にはソ連軍が接近していたが支援に動かず、友軍と思い近づいて逮捕、銃殺された兵士もいたという。スターリンは、国内軍によってではなくソ連軍によってポーランドは解放された、というかたちをとりたかったのだ。戦後ポーランドは、スターリンの思惑通りソ連の衛星国となった。この時のポーランドの暗鬱な船出を描いたのが、アンジェイ・ワイダ監督の「灰とダイヤモンド」である。ワイダ監督は父親をカティンの森事件で亡くしている。
 こうした史実があるからこそポーランドは、ロシアに蹂躙された人々への支援に動くのだろう。
 第二次大戦では、チェコスロヴァキアも複雑な運命に翻弄された。ヒトラーの手で1938年、ズデーデン地方のドイツへの割譲が行われ、翌年にはチェコの残る部分がドイツに編入、スロヴァキアは保護国として存続を許された。多くの軍人が亡命、義勇軍として連合国側に加わった。ドイツがフランスと戦闘状態に入ると、チェコスロヴァキア人は敵味方に分かれて戦う事態になった。抑圧的な統治に反発した反ドイツ勢力は1942年、事実上の権力者であるハインリヒ副総統を暗殺【注】、ドイツは報復としてリディツェ村民の虐殺を行った。戦争が引き起こした悲惨な事例である。

 このほか、チトーという稀有な指導者を得て国家を成立させたユーゴスラヴィア(この国名は南のスラブ人を意味することを、この書で知った)が、チトー亡き後凄惨な内戦に突入したこと、背後にはパズルのように民族と宗教が入り組み、第二次大戦で連合国、ナチスドイツどちらにつくかで互いの憎悪をたぎらせたという、これまた複雑な経緯があることもあらためて知らされた。ヨーロッパの古層を一枚一枚はがしていく思いにさせられた一冊。
 朝日新書、980円(税別)。

【注】この事件をめぐっては「HHH プラハ1942年」(ローラン・ビネ著)という面白い一冊がある。


第二次世界大戦秘史 周辺国から解く 独ソ英仏の知られざる暗闘 (朝日新書)

第二次世界大戦秘史 周辺国から解く 独ソ英仏の知られざる暗闘 (朝日新書)

  • 作者: 山崎 雅弘
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2022/02/10
  • メディア: Kindle版

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文化と青春の薫りがする~濫読日記 [濫読日記]

文化と青春の薫りがする~濫読日記


「聖子 新宿の文壇BAR「風紋」の女主人」(森まゆみ著)

 2月下旬、新聞に小さな死亡記事が出た。林聖子さん。93歳。文壇バー「風紋」元店主。作家、映画監督らが足を運んだという。太宰治の小説のモデルにもなった。どのようにして「文壇バー」なるものの店主になったのか。どのような人生を生き、店にはどんな人々が集まったのか。誰しも関心を持つところだ。おそらく同じ思いだった森まゆみが本人と周辺からの聞き語りとしてまとめた。

 帯に「『風紋』に集まった人々」の一覧がある。文壇バーというとおり、大御所あり、無頼派作家あり、詩人あり、思想家あり、先鋭的な映画監督あり。陳腐な表現だが「綺羅星のごとく」である。時代の息吹を感じさせる人たちは、「風紋」のどこに魅力を感じて集まったのだろう。
 彼女が放つ何か、それを探るために森はまず出自に目を向ける。父の倭衛はアナキスト大杉栄にシンパシーを抱く画家だった。大逆事件で刑死した菅野スガの慰霊祭を取材した森は、その後の流れで聖子の店へ出向いた。それが、この本を書くきっかけになった。1990年代のことである。
 倭衛は1919年に大杉をモデルにした「出獄の日のO氏」を二科展に出し、警視庁から撤回命令を出される。2年後、フランスに渡った。翌年、大杉がパリに現れる。二人の「乱痴気騒ぎ」がしばらく続いた。1923年、パリのメーデーで演説した大杉は逮捕、「好ましからざる人物」として国外追放される。その年の秋に関東大震災が起き、大杉は伊藤野枝とともに殺害される。倭衛は「あのとき逮捕されていなければ日本にはいなかっただろう」と日記に書いた。やがてイヴォンヌと知り合うが日本には連れ帰らず、津山から上京した画学生・秋田富子と結婚した。
 40代初めの倭衛の写真が掲載されている。和服姿でひげを生やし、細面でなかなかの顔立ち。表紙にある聖子も、父に似て細面の美人である。倭衛は結婚して2年後、聖子が生まれた時にはフランスにいた。病弱の母は結核療養所に出たり入ったり、父は愛人の博多芸者のもとに入りびたり。火の車状態で父は病死した。何もない状態で聖子の戦後が始まった。17歳だった。
 太宰治とは、母のアパートで出会った。母が体調のよいとき勤めていたカフェの客だった。1941年、13歳だった。

 ――終戦の翌年の11月初め、私は三鷹駅前の書店で、太宰さんとばったり会ったんです。(略)「聖子ちゃん?無事だったのか。よかった、よかった」と、昔のままで全然変わっていなかった。
 ――そこに載っていた「メリイクリスマス」では私が主人公のモデルで、母親が広島の空襲で亡くなった孤児ということになっています。(略)これを読むと、ずっと昔の自分に出会うことができます。(130-131P)

 太宰の紹介で、翌年春から新潮社で働いた。1948年、太宰は山崎富江と心中。聖子は玉川上水の心中現場に立ち会った。筑摩書房に勤めを変え、4軒のバー勤めをへて最初の「風紋」を始めた。1961年のこと。それまでに同棲男性の死があり、演劇を学んだりもした。開店4年目から最後まで手伝ってくれた女性・節子は後にイラストレーター林静一と結婚した。

 壇一雄、勅使河原宏、大島渚…。酔って店の階段から転落し、病院に担ぎ込まれた竹内好。第3「風紋」まで、客筋は実に多彩だ。カウンターの内側から見た愛すべき横顔は、いずれも文化と青春の薫りがする。おそらくは店主の持っている「何か」が引き付けたのだろう。
 亜紀書房、1800円(税別)。

聖子——新宿の文壇BAR「風紋」の女主人聖子——新宿の文壇BAR「風紋」の女主人

作者: 森 まゆみ
出版社/メーカー: 亜紀書房
発売日: 2021/10/23
メディア: 単行本



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苦難の末にかちとった独立~濫読日記 [濫読日記]

苦難の末にかちとった独立~濫読日記


「物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国」(黒田祐次著)


 ウクライナがロシアの軍事的脅威にさらされている。なぜロシアはウクライナに執着するのか。それは単に地政学上の理由によるものなのか。そんなことを考えるにあたり、我々はウクライナの歴史や文化をあまりに知らないことに気づかされる。
 そこで、参考書をあたった。国内で手に入る著書は意外に少ない。そんな中で「物語 ウクライナの歴史」は手軽であるうえに内容の濃い一冊と思われた。著者は元外交官で、駐ウクライナ大使などを務めた。

 紀元前の遊牧民、スキタイ人の登場から10世紀ごろのキエフ・ルーシの建国に至るまでが前史にあたる。このころは公国と呼ばれた。モスクワ公国がその後、勢いを増し「ルーシ」をラテン語読みした「ロシア」を名乗った。そのため「ルーシ」は紛らわしさを避けるため「キエフ・ルーシ」と表記したという。もともと本家は「ルーシ」にあったのだ。やがてモンゴルの来襲によってキエフ・ルーシは解体の道をたどった。
 その後の歴史を見るとポーランド、ロシア、オーストリアの支配と干渉を受け、大国のはざまのブラックホールのような存在になる。その中で独立不羈の民コサックが草原を駆け巡った。
 ロシア帝国下のウクライナで、革命の進行とともに独立の機運が高まった。つくられたのが「中央ラーダ」だった。ラーダはウクライナ語で「評議会」を意味し、ボリシェビキの「ソヴィエト」にあたる。しかし、ラーダは民族主義的で個人の不可侵などリベラルな思想を持ち、ボリシェビズムと激しく対立した。それでもレーニンの時代には「戦術的柔軟性」の名のもとウクライナ独立は維持された。1917年、ウクライナ国民共和国の創設が宣言された。
 ウクライナをめぐってボリシェビキ軍、ドイツ・オーストリア軍が入り乱れて内戦状態となり、一時はドイツが支配したものの1921年にボリシェビキ軍の完全勝利となった。権力は1927年、スターリンに移行。農業集団化が強制的に進められた。農産物は強権的に徴収され、ウクライナは大飢饉に陥った。1933年にピークを迎えた死者数はウクライナ政府の公式見解で350万人。300万から600万の間とする学者もいるという。スターリンは飢饉の責任をウクライナ共産党にあるとした。
 ソ連全土を襲ったスターリン粛清のあらしはウクライナでも吹き荒れ、ウクライナ共産党員の37%にあたる17万人が犠牲となった。
 1930年代に興味深い動きが見られた。武力で独立を目指したウクライナ民族主義者組織(OUN)が旧満州(中国東北部)で政治、軍事上の接触をしたという。しかし、その後に日本側はロシアの亡命ファシストとの連携を重視、OUNとの連携は中止された。ユーラシア大陸の東西で、一時は反ソ軍事協力が話し合われたのだ。
 ゴルバチョフの進めたグラスノスチ(情報公開)によってスターリン粛清や農業集団化が招いた飢饉の全体像が明らかになり、ウクライナ民族主義の高まりに拍車がかかった。ソ連が崩壊すると、1991年ウクライナは独立した。17世紀、コサックの英雄フメリニツキーがポーランドに戦いを挑んで以来、350年ぶりに実った夢だと著者は書いている。制定された国旗は上が大空を表す青、下が麦畑を表す黄色。ラーダの時代のものを復活させた。ヨーロッパの穀倉と呼ばれるウクライナにふさわしい。
 あらためて独立までの歴史を見れば、四方を海に囲まれた日本に住む我々には想像もつかないほどの苦難に満ちている。
 なお、著者は末尾でウクライナの将来性について述べている。面積はロシアに次ぎヨーロッパ2位、人口はフランスに匹敵する5000万人。世界の黒土地帯の3割を占める農業最適国。鉄鉱石はヨーロッパ最大規模の産地。これに、西欧世界とロシア、アジアを結ぶ交通の要衝。平和のうちに発展させれば「大国」として存在感を発揮する将来性は十分なのだ。しかし、このことを裏返せばロシアが執着する理由にもなる。

 読み終わっての感想を一言。クリミア半島は北東アジアにとっての朝鮮半島、ウクライナはかつての日本にとっての満州にあたる位置にある。あの忌まわしい歴史を繰り返してはならない。日本を含めた世界の、戦禍を避けるための細心の配慮が求められるのではないだろうか。
 中公新書、860円(税別)。


物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国 (中公新書)

物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国 (中公新書)

  • 作者: 黒川祐次
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2014/07/11
  • メディア: Kindle版


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商業主義にまみれた美術界~濫読日記 [濫読日記]

商業主義にまみれた美術界~濫読日記


「最後のダ・ヴィンチの真実」(ベン・ルイス著、上杉隼人訳)

 2017年のクリスティーズの競売でレオナルド・ダ・ヴィンチの作とされる1枚の絵画に4億5000万㌦という空前の落札価格がついた。1500年代初めに描かれたとみられる絵画は、なぜ近年になって注目されたのか。この500年間、誰がどのように保管していたのか。そして最大の謎は、真贋も来歴もあやしいこの絵に、誰が日本円で510億円という巨額の資金を投じたのか。そのへんのミステリー小説をしのぐミステリーに挑んだノンフィクションが「最後のダ・ヴィンチの真実」である。
 見えてくるのは美術界の腐敗ぶりと、背後にうごめくアラブの富豪、ロシアの新興実業家、オフショアネットワークの欲望にまみれた姿だ。

 らせん階段を上るように
 「サルバトール・ムンディ」と題した、キリストの上半身を描いた絵。右手は2本の指が伸ばされ、祈りのかたちをしている。左手は、おそらく地球を表す透明の珠を持っている(これは、地動説に通じる思想である。ガリレオが「それでも地球は動く」と言ったのは17世紀。その点でも興味深い)。金色の帯と青いローブを着用し、表情は穏やかで顔はややぼかされている。「モナ・リザ」と同じスフマート技法である。
 来歴について決定的な証拠はないが、仏国王の依頼で描かれ、王女がイングランド王チャールズ1世に嫁ぐとき持参。以来英国王室が保持していたが、内乱のあおりで行方知れずとなった。ただ、あくまで一つの説である。そして18世紀半ばから1900年までは明らかに消息不明であった。その後、英国や米国の実業家の手に渡ったとされる。
 絵はフランス革命とナポレオンの時代、英国の内戦の時代をくぐってきた。この間、「ダ・ヴィンチ作」と認識されていたかもあやしい。そのため、ひどく傷んでいた。
 2005年、ロバート・サイモンとアレックス・パリッシュというニューヨークの美術商がニューオーリンズの競売でこの絵を手に入れたところから、一つのストーリーが動き出す。1175㌦だった。損傷を隠すため大幅に塗り直されていた。サイモンはダ・ヴィンチ研究で知られたオックスフォード大のマーティン・ケンプに鑑定を依頼。ケンプは見たとたん「ダ・ヴィンチの魔法だ」と感じた。
 彼らは勝負に出た。ロンドンのナショナル・ギャラリーに世界の専門家を集め、鑑定してもらおうと計画した。しかし、明確な見解が出ないままナショナル・ギャラリーのダ・ヴィンチ展で公開。企画したキュレーターはダ・ヴィンチ作と明記した。新しいレオナルドの出現は反響を呼んだ。
 絵はロシアの富豪を経てらせん階段を上るように注目を集め、2017年のクリスティーズの競売の場面に至る。買い手はサウジの皇太子だった。UAEにオープンしたルーヴル・アブダビに展示されることが明らかになり、両者の連携がみてとれた。結局アブダビでは公開されず、提携関係にあったパリのルーヴル美術館の「ダ・ヴィンチ没後500周年大回顧展」での出展も予告されたが、実現しなかった。

 「巨匠の作」にこだわるべきか
 「サルバトール・ムンディ」をめぐる一連の動きについては、ドキュメンタリー映画「ダ・ヴィンチは誰に微笑む」(フランス、アントワーヌ・ヴィトキーヌ監督)が公開された。ほぼ同じ内容だが、一点だけ新事実が盛り込んであった。ルーヴル美術館が大回顧展の前に科学的な鑑定を行った結果「ダ・ヴィンチが貢献した作品」との結論を得たという。工房で描かれ、ダ・ヴィンチが後から筆を入れたという解釈である。こうした鑑定を行ったこと自体、ルーヴル美術館は公式には認めていないという。鑑定結果が事実であれば、4億5000万㌦も出した現保有者は絵の価値が大幅に下がるリスクを冒してまで出展に応じないのでは、という推測が成り立つ。この点は「最後のダ・ヴィンチの真実」でも触れている(「日本の読者の皆さんへ」)。
 さらにベン・ルイスはこう主張する。

 ――これがもしもレオナルドと工房によるものであれば、工房のもっとも質の高い作品のひとつである。掲げられた手、髪、衣装の刺繍でそうだとわかる。(略)ロバート・サイモンの「サルバトール」には、もっとも広く多くの人に知られているレオナルドの作風がいちばん美しく表現されている。その典型例ではなく、最高例だ。

 著者はこのあと、1500年代に入ってすぐに中世とも現代ともつかないまったく新しいイメージを構築した、と述べている。絵はロックフェラーセンターの競売場で、ルネッサンスの巨匠の作としてではなく、現代アートのカテゴリーで競売にかけられた。ケンプはこの絵に「感じるものがある」と述べている。こうした一種のオーラを感じた人たちは、ほかにもいた。ダ・ヴィンチ作かダ・ヴィンチと工房の作かは、小さなことにも思える。「署名」にこだわることで、法外な値がついたのだ。この現代美術の商業主義ぶりを、ダ・ヴィンチ自身はどう見ているだろうか。
 集英社インターナショナル、3200円(税別)。

最後のダ・ヴィンチの真実 510億円の「傑作」に群がった欲望 (集英社インターナショナル)

最後のダ・ヴィンチの真実 510億円の「傑作」に群がった欲望 (集英社インターナショナル)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2021/02/26
  • メディア: Kindle版

ダヴィンチ.jpg

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人類はなぜ「愚者の無駄骨」を繰り返すのか~濫読日記 [濫読日記]

人類はなぜ「愚者の無駄骨」を繰り返すのか~濫読日記


「戦争の文化 パールハーバー・ヒロシマ・911・イラク」(ジョン・ダワー著)


 日本の占領期を日本人以上に深い洞察力で再現した「敗北を抱きしめて」のジョン・ダワーが9・11と直後のイラク戦争に直面した米国の動向と、かつての日米間の戦争の歴史を縦横に分析、上下2冊にまとめた。
 ダワーには、近代日本だけでなく「忘却のしかた 記憶のしかた」や「アメリカ 暴力の世紀」など、最近の米国に対する批判的な論集もある。いわばこうした支流が集まって大河になるように、一つの結節点としてまとめられたのが「戦争の文化」ともいえる。

 偏狭・傲慢・偏見
 ここでいう「戦争の文化」【注1】とはなんであろうか。手元の辞書【注2】では、文化とは「自然に対して、学問・芸術・道徳・宗教など、人間の精神の働きによってつくりだされ、人間生活を高めてゆく上の新しい価値を生み出してゆくもの」とある。一般的すぎるので、この定義をベースにしつつ「戦争の文化」の中から該当箇所を探ってみる。

 ――自分に都合のよい思考、内部の異論を排除し外部の批判を受け付けない態度、過度のナショナリズム、敵の動機や能力を過小評価する上層部の傲慢といった「戦争の文化」(以下略)
 ――戦争の文化のもうひとつの側面は、文化的・人種的偏見がつきまとうことである。日米戦争がそうであった(以下略)=いずれも「日本語版への序文」から。

 偏狭、傲慢、偏見。これらは、開戦の決断や戦争の遂行にあたって「理性とはレベルの異なる巨大な要因」だと著者はいう。そして「兵器や情報収集技術はかつてなく洗練されたが、人間の生の感情や判断力は、エリートたちの世界でもそれほど変化していない」のである。このことを、60年という時を隔てて二つの事象の中に探求していく。第二次大戦と9・11.それに続くイラク戦争である。

 9・11では「グラウンド・ゼロ」という言葉が使われた。もともと広島、長崎の爆心地を表した。当時のブッシュ大統領はアルカイダ無差別テロ攻撃による被害を、言葉の剽窃によって巧妙に聖地化したのである。この行為は、もう一つの歴史的犯罪をも明らかにした。広島、長崎への原爆投下自体が「無差別テロ」ではなかったか。著者は原爆投下やその前の日本本土無差別爆撃もテロ行為であったとしている。
 ブッシュ政権は「テロとの戦い」「衝撃と畏怖」を掲げ、イラク戦争に踏み込む。「衝撃と畏怖」とは「テロ」の本質そのものであるが、ブッシュ政権によるそのことへの言及はない。日本への原爆投下も、イラクへの開戦も「偏狭、傲慢、偏見」そのものといえる。

 あぶりだされるのは、危機予測における無能、合理性を装った希望的観測、歴史と現状に関する想像力の異様なほどの欠落―である。それらが引き寄せるのは「愚者の無駄骨」【注3】である(「プロローグ」から)。むろんこれは、イラク開戦時の米政権に限ったことではない。真珠湾攻撃によって米国と開戦した日本の軍部をも指している。

 9・11は多くの米国人に「真珠湾」の記憶を蘇らせた。それはシステム的な予知能力の欠如という、屈辱的な感情を含む暗号となった。いうまでもなくアルカイダと日本は別次元の存在である。しかし、米国から見れば日本の真珠湾攻撃はありえないことであったし非合理的思考の結果でもあった。その意味で真珠湾はアジア的非合理性=西欧文明の優越性を表す暗号となりえた。それは、イスラム社会に対する西欧社会の優越性と同義語でもあった。

 定式化できない「アニマル・スピリッツ」
 著者は1941年の真珠湾攻撃を、戦術的には華麗だが戦略的には近視眼的な愚行であったとする。そのうえで「戦略的愚行に似て、経済的愚行においても日本は先例となっていた」と指摘する。1990年代から2000年代初めまでの不動産バブルを引き金にした経済危機を指す。この原因を探る中で著者は数量モデルだけで定式化できない「アニマル・スピリッツ」の存在があるという(下巻292P、エピローグから)。これは経済分野に特有のものでなく「深い心理学的、制度的な病理の反映」であり「その病理の中にけっして消えてなくならない戦争の文化が含まれている」とする。人類はこの「欺きの思考様式を真に制御し、乗り越える力を身につけられるか」。著者は「最良の場合でも『大いに不確実』」だという。「実現するには、これまでとは根本的に異なる信条と理性が必要とされる」―。おそらくここに、著者の結論の核心があると思われる。
 岩波書店、上下各2800円(税別)。

【注1】原題も「CULTURES OF WAR
【注2】国語大辞典(小学館)
【注3】著者はこの言葉に「愚者の黄金」を対比させている。見せかけの黄金を見つけ、喜ぶ行為を指している。


戦争の文化: パールハーバー・ヒロシマ・9.11.イラク ((上))

戦争の文化: パールハーバー・ヒロシマ・9.11.イラク ((上))

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2021/12/07
  • メディア: 単行本
戦争の文化: パールハーバー・ヒロシマ・9.11.イラク ((下))

戦争の文化: パールハーバー・ヒロシマ・9.11.イラク ((下))

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2021/12/07
  • メディア: 単行本

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現代に引きずってはいないか組織的欠陥~濫読日記 [濫読日記]

現代に引きずってはいないか
組織的欠陥~濫読日記


「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」(戸部良一氏ら著)


 日本軍の敗戦を組織運用の側面から分析した。つまり、この書は歴史書でも戦史書でもない。先の大戦【注1】を歴史の中で見れば、国力で圧倒的に開きがある相手になぜ戦いを挑んだのか、という問いへの答えがあるべきだが、それはない。日本軍という組織はなぜ大東亜戦争に対応できなかったのか、がすべてである。つまり、組織論から見た日本軍の敗因の追究である。そこでまず、軍隊について次のように定義する。

 ――そもそも軍隊とは、近代的組織、すなわち合理的・階層的官僚制組織の最も代表的なものである。

 よく言われるが、軍隊は行政組織である。しかも機能上、最も無駄のない、効率的に動く組織体でなければならない。では、日本軍はそのようなものであったか。

 ――日本軍には本来の合理的組織となじまない特性があり、それが組織的欠陥となって、大東亜戦争での失敗を招いたと見ることができる。

 ここでいう「特性」とは何か。なぜそれは排除されなかったか。その答えが、以後追究される。そのために、日本軍の典型的な失敗例と思われる六つの戦いを取り上げる。①ノモンハン事件②ミッドウェー海戦③ガダルカナル攻防戦④インパール作戦⑤レイテ沖海戦⑥沖縄戦―である。いずれも、今もって謎の多い作戦行動だった。その謎を解き明かすことが、日本軍の組織的欠陥を明るみに出すことになるのではないか。そうした視点で、分析が試みられる。
 ノモンハンは、日本軍が機械化された戦争、つまり現代の戦争に初めて遭遇した事例である。そのことの分析と反省はなされたか▽ミッドウェーは、戦う前に相手方に暗号がすべて解読されていたことが致命的だった=情報戦の軽視▽ガダルカナルは、米軍が太平洋の制空権獲得のため戦略的に動いたにもかかわらず日本はそれを見抜けず、少数部隊で対応を図ったことが後あとまで尾を引いた=グランド・デザインの欠如▽インパールは、初めから無謀と思われた作戦が、なぜ立案されるに至ったか。そこに組織的欠陥はなかったか▽レイテでは、栗田艦隊謎の転進があった。背景に、大本営と前線司令官との間の戦略観の違いがあった▽沖縄もまた、大本営と現地司令官の間に戦略をめぐる齟齬があった―。

 これらの事例に米軍との組織的違い(上記六つの戦いのうち四つは日本軍対米軍だった)を重ね合わせ、日本軍失敗の原因と背景を抽出していく。
 戦略面で見ると、米軍の目的性の明確さに比べ、日本軍は曖昧だった▽米軍の長期的視点に比べ、日本軍はつねに短期志向だった【注2】▽米軍は戦略オプションを常に考慮したが日本軍はオプションなし、つまり不測の事態が起きた時の対応策(コンティンジェンシー・プラン)がなかった▽技術体系は、米軍の標準化志向に対して、日本軍は一点豪華主義=ゼロ戦と大和が代表例=であり、その他は日露戦争当時の兵器に頼った=三八式歩兵銃が典型例。
 組織論的には日本軍が人的ネットワークを重視したのに対し、米軍はシステム重視の構造主義だった。そこから生まれる学習法は日本がシングルループなのに対し米軍はダブルループ、評価法も、日本が動機・プロセス重視、米が結果重視だった。
 どうしてこのような差が生まれたか。この書では、パラダイムシフト(戦略的なものの見方の転換)が、日本軍で行われなかったためとする見方を示している。

 日本の近代を見ると日清、日露戦争で勝利したが、第一次世界大戦はほとんど交戦体験を持たなかった【注3】。しかし、世界はこの大戦で戦略、戦術、兵器技術の面で大きく変わった。日本はそのことに気づかないままノモンハン事件に遭遇、敗戦を糧とせず日中戦争、大東亜戦争に突入した。そこでの戦略の原型は、驚くべきことに東郷平八郎の日本海海戦と乃木希典の二〇三高地だった。こうして艦隊決戦と突撃白兵戦が抜きがたく戦略思想の原点となった【注4】。実際の戦闘から学び戦術、戦略を積み上げるのではなく、日露戦争当時の戦いぶりをいかに再現するかにエネルギーが注がれ、教育体制や組織運用もそれに沿うものとなった―。
 こうした組織運用は現代日本で改善されただろうか。今日の企業、官僚の組織運用、人的運用を見るにつけ、参考になる一冊である。
 中央文庫、762円(税別)。1991年初版発行以来76刷。名著である。

【注1】この書では、戦場は太平洋に限らなかったとの注釈をつけて「大東亜戦争」を使っている。以後、ならって「大東亜戦争」を使う。
【注2】ドイツ少数部隊がロシアの大軍を破った第一次世界大戦初期のタンネンベルクの戦いこそ「持たざる国」の陸軍の理想形であり、この奇襲戦法が日本陸軍に引き継がれた、とするのは「未完のファシズム 『持たざる国』日本の運命」(片山杜秀著、2012年初版)。
【注3】前掲書によると、中国大陸・山東省でドイツ軍を降伏させた体験は、日本人にとって「成金気分あるのみ」(徳富蘇峰)だった。
【注4】真珠湾攻撃は、戦略的にはともかく戦術としては未曽有の傑作だった。従来の艦隊決戦でなく空軍力で敵を陵駕できることを示したからだ。しかし、教訓を生かしたのはミッドウェーでの米海軍であり、レイテ、沖縄に至るまで日本は艦隊決戦論を捨てきれなかった。ガダルカナルでは、大量物資を揚陸させた米軍に対し日本軍は兵站軽視から兵員、武器、食料はつねに不足、絶望的な夜襲切り込みを繰り返した。


失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫 と 18-1)

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫 と 18-1)

  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1991/08/01
  • メディア: 文庫


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水俣を流れる悠久の時間~濫読日記 [濫読日記]

水俣を流れる悠久の時間~濫読日記

「葭の渚 石牟礼道子自伝」(石牟礼道子著)

 「苦海浄土」の著者石牟礼道子の生涯については元毎日新聞記者米本浩二の優れた評伝「石牟礼道子 渚に立つひと」(2017年)がある。標題の自伝はそれに先立つ2008年から13年にかけて熊本日日新聞に連載された。米本の評伝は詳細にして精緻、2020年に出た「魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二」と併せて読めば彼女の生きざまを立体的に再現して興味深いが、彼女自身の手による「葭の渚」もまた別の意味での魅力を漂わせる。
 彼女の地元紙に年間にわたって書かれた文章は「飛び飛びの連載」だったと明かされているが、そのためか多少の書きムラが見られる。幼少期から始まり、谷川雁との出会い、サークル村への参加にいたる成年期へと、ほぼ時間軸に沿ってつづられていくが、圧倒的に幼年期から少女期にかけての前半が濃密で優れている。
 それは、皮肉なことだが、幼くして自省的な部分が少ない分、周囲の人々、自然環境への目配りがきいているためであろう。言い換えれば不知火の海、水俣の人々との悠久のときの流れが文体の中に共有されている。
 天草を出た祖父は水俣で石工として事業をなし、対岸の宮野河内で道路建設をしているときに道子が生まれた。彼女の名の謂われもそこにある。しかし、祖父は事業道楽といわれるほど損得に無頓着だったため、やがて倒産。一家は「さしょうさい」(差し押さえ)を食って水俣川河口、火葬場の入り口と呼ばれる場所へ掘っ立て小屋を建て移り住む。評伝も自伝も「渚」がタイトルに使われているのは、このころの生活の落魄が文学の礎をなしているとの確信によるものだろう。
 こうした幼少期の生活を通じて祖母おもかさまの異常な振る舞い、長男・國人の「書物神様」ぶり、水俣の栄町通りの人々の暮らしぶりが描かれる。中でも、妓(おんな)たちが商う末廣で繰り広げられた哀しいドラマが浮き立つ。印象的なのは16歳で店に来た「すみれ」の悲劇である。ある日、中学生に刺殺される。その少年もだが、家族も哀れであると道子の視線は語る。犯罪者となった少年の弟から「おやゆびひめ」の絵本をもらった。「嬉しいというより、その家の行き場のない悲しみをもらったような気がした」と書く。
 不知火の海を望む浜に移り住んでの貧しい生活は楽ではなかっただろうが、目の前に広がる自然は豊かだった。

 ――猿郷は一種の里村といってよかった。千鳥洲という響きのよい地名を持った田んぼを前に控え、そこを突っ切って長い土手を浜辺へと歩いてゆけば、松風の音のする広い林があった。林の前は遠浅の海で、潮が引けば沖の方まで干潟があらわれる。月のうち二度、大潮という日があって、特別に起きの方まで潮が引き、砂州があらわれ、実にいろいろな種類の貝がとれた。

 もちろん、海からのめぐみは貝だけではなかった。終戦直後の食糧難ではイワシを取り、塩漬けにして農家の米と交換した。しかし、見知らぬ家の軒先で「イワシと米を交換してください」とどうしても言えない。根っから日常をしたたかに生きる人ではなかったのだ。こうした性格は、熊本の短歌会で出会った「虚無と至純の詩人」志賀狂太とのかけがえのない交友につながる。しかし、志賀は何度かの未遂の末に自殺する。
 「苦海浄土」を書くに至る過程としてあった谷川雁との出会い、サークル村への参加は、ごく簡単にしか触れられていない。生涯の魂の伴侶ともいうべき渡辺京二とのことは全く出てこない。それでも、なぜ「苦海浄土」を書くに至ったかはよくわかる。石牟礼道子という人間の感性の形成ぶりが理解できるからである。谷川雁や渡辺京二とのことを知りたければ、別のかたちで読めばいい。彼女が見定めようとした水俣を流れる悠久の時間と常民の暮らしぶりが見える一冊でもある。それはとりもなおさず、自身が常民ではなかったことに由来するのだが。
 藤原書店、2200円(税別)。

葭の渚 〔石牟礼道子自伝〕

葭の渚 〔石牟礼道子自伝〕

  • 作者: 石牟礼 道子
  • 出版社/メーカー: 藤原書店
  • 発売日: 2014/01/20
  • メディア: 単行本

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マスコミの寵児はいかにして生まれたか~濫読日記 [濫読日記]

マスコミの寵児はいかにして生まれたか~濫読日記


「大宅壮一の『戦後』」(阪本博志著)


 日本の映画史を振り返ると大きく二つのヤマがあった。最初のヤマは大正末期から昭和の初めにかけてで、1920年から30年代。二つ目は戦後、1950年代の後半から60年代の初頭にかけて。58年に日本の映画人口は112700万人で史上最高だった。
 むろん、映画だけがこのような動きを見せたわけではない。背景には社会の様々な動きがあった。中でも大きいのは大衆社会の平準化と高揚であろう。二つの時期は第一次、第二次大戦の直後に訪れた。二つの大戦は世界的に国家総動員体制の確立を迫った。このことの社会的記憶・遺産と戦後の世界的な秩序の安定が相まって大衆社会の平準化・高揚が生まれたと容易に推測できる。 


大宅と戦争体験
 この二つのヤマを生きた著名な人間として大宅壮一がいる。
 大宅と一つ目のヤマの出会いに言論の市場化=批評のマテリアリズムの萌芽を見たのが「批評メディア論 戦前期日本の論壇と文壇」(大澤聡)だった。大宅と二つ目のヤマの出会いに焦点を当てたのが「大宅壮一の『戦後』」(阪本博志)である。
 阪本は、日本の社会史と大宅の個人史を重ねるにあたって二つの視点を導入する。前田愛の大衆社会論と鶴見俊輔の転向論である。前田によれば1920年代半ば~30年代半ばと195560年代にかけての大衆社会化の中で大宅が活動を展開。阪本はこの中で、戦争体験が大宅にどう作用したかを見た。
 戦前、共産主義思想にシンパシーを抱いた時期があった大宅は、国家総動員体制を経て(大宅はプロパガンダ映画製作のためジャワに派遣された体験を持つ)、戦後マスコミの寵児となった。このプロセスを、鶴見は以下のように分析する。
 ――大宅の最初の著作「文学的戦術論」(1930年)と最近の著作「『無思想人』宣言」(1955年)とをくらべてみるならば、当時の前衛的団体のオルグとしての大宅の活動形態と、現在のマス・コミ(原文ママ)諸機関のタレントとしての大宅の活動形態とのあいだにあるとおなじだけのひらきがみえる。
 ――彼の転向は、前衛的知識人から傍観者的知識人への転向のコースの典型であり、またこの時代の日本の知識人としてはもっとも大衆の転向のコースに近い。(いずれも「共同研究 転向」から。「大宅壮一の戦後」から孫引き)
 大宅は戦後、週刊誌やテレビで「大宅の顔を見ない日はない」といわれるほど売れっ子になったが、戦前の思想遍歴や戦争体験、戦後の転向が正面から問われたことはなかった。それは彼が、鶴見が言うように、知識人のそれではなく大衆レベルでの「転向」コースをたどったためであろう。「戦後思想とは、戦争体験の思想化であったといっても過言ではない」(小熊英二「<民主><愛国>―戦後日本のナショナリズムと公共性」から。「大宅壮一の戦後」から孫引き)という「戦後」を、大衆と同じ地平で引き受けたからこそ、大衆文化が高揚した1950年代に、その言説が大衆に受け入れられたのではないか。 


「無思想」という思想
 とはいえ、戦後の論壇への復帰は容易ではなかったようだ。戦前左翼が戦中に軍部の要請に従い、戦後は再び民主主義、共産主義思想に戻るというのは知識人にありがちだが、大宅はそうはしなかった。戦後の一時期、農業で暮らした。自身、このころを「文筆の断食期」としている。一方で「猿取哲」(サルトルに哲学をくっつけた)の人を食ったペンネームで書いたりもしていた。「変革の直後に動き回る人間は、世の中が安定すると一掃されるということが分かっていたから、なにも書かなかった」(1957年)と振り返るが敗戦後、筆を折った時期と猿取、大宅の時期は明確な色分けができるものではなかった。「猿取」と「大宅」が併存する時期がしばらくあったと、綿密な調査の上で阪本は書いている。
 大宅が戦後の論壇に「再登場」したのは、1950年の「『無思想人』宣言」(「中央公論」)によってであった。この「無思想」という「思想」はどんなものだったか。大宅(猿取)の文章から引く。
 ――ジャーナリズムは、それ自体商品の一種であると共に、人類文化のすべての分野を商品化する機能を持っている。幽玄なる思想も、崇高なる芸術も、ひとたびジャーナリズムの手にかかれば、(略)レッテルを貼ってジャーナリズム市場に陳列されるのである。(1949年「前進」)。
 猿取哲のペンネームで左翼系の雑誌【注】に寄せた。この考えはその後も一貫しており、ジャーナリズム→商品→分業は、その後週刊誌で実現させた、データマンとアンカーマンの執筆分業体制にも通じている。
 ともあれ「『無思想人』宣言」によって大宅は戦後ジャーナリズムの方向性を規定しただけでなく自らの位置を定め、戦後マスコミに一時代を築いた。心不全で亡くなったのは19701122日。三島由紀夫が市ヶ谷で自決する3日前だった。阪本は大宅論の締めくくりとして、あらためて「大衆社会化」「転向」「戦争体験」というキーワードを挙げている。大宅と三島は生きた時代こそ違うが、ともに戦後を体現する知識人であった。しかし、上記の三つのフィルターを通してみた時、位相の落差の大きさに愕然とする。
 阪本の労作は戦後マスコミの寵児だった大宅の成り立ち方、成分表を明らかにした、といえるのではないか。
 人文書院、3800円(税別)。

【注】「前進」は、日本社会党労農派の理論的指導者山川均が1947年に創刊した。



大宅壮一の「戦後」

大宅壮一の「戦後」

  • 作者: 博志, 阪本
  • 出版社/メーカー: 人文書院
  • 発売日: 2019/11/22
  • メディア: 単行本


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戦後保守政治の暗部に迫る労作~濫読日記 [濫読日記]

戦後保守政治の暗部に迫る労作~濫読日記


「ロッキード疑獄 角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス」(春名幹男著


 19762月、ロッキード事件が日本で初めて大々的に報じられた時のことを覚えている。地方にいたので、第一報は夕刊だった(朝日が前夜最終版で突っ込んだらしいが、それは目にしなかった)。1面トップ、米上院外交委多国籍企業小委(チャーチ委員会)の公聴会でロッキード献金が日本の複数の人物に渡ったと証言があった、としていた。渡った先は「児玉誉士夫」が最も大きな見出しだった。その後、雪崩を打つように「ロッキード事件」は報じられた。なぜか「児玉」の名は消え「丸紅ルート」「全日空ルート」が取りざたされた。二つのルートの交差するところに「田中角栄」がいた。というより、田中を結節点とする事件の構図が作られたのかもしれない。
 元首相・田中角栄は発覚から半年後の7月27日に逮捕された。しかし、どこか「闇」を感じさせる展開だった。それは誰もが感じていた。だから様々な「陰謀説」【注】が飛び交った。
 ロッキード社が日本にトライスター売り込み攻勢をかけたのは1972年のことである。その時から50年近くを経て、事件の全体像に迫る労作が出た。標題の書である。著者は共同通信の外信畑を長く歩んだ春名幹男氏。
 ロッキード事件では、腑に落ちない点がもう一つあった。報じられ方が、新聞社であれば政治部=永田町目線か社会部目線、そうでなければ「田中金脈」を最初に報じた立花隆目線であることだ。いずれも日本国内から見た「事件の構図」だった。陰謀説が取りざたされた理由もそこにあった。米政権の思惑やアプローチについて実証的な積み上げをせず憶測に頼る、という手法が横行したように思う。最たるものが田中・独自の資源外交→米国メジャーの虎の尾を踏んだ、という説であろう。
 春名氏は、15年に及ぶ日米の取材の中で徹底的に米側文書を洗い出し、陰謀説の真贋を明らかにしながら米側の政策決定プロセスに迫っている。このことを「あとがき」で明瞭に語っている。
 ――ロッキード事件は二つの局面で構成されている。第一に、田中首相在任中の日米関係、第二にロッキード事件発覚後の捜査の展開だ。この二つがどうつながるのか、実は誰も解明してこなかった。
 そうなのだ。田中に対して、ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官はどういうスタンスでいたか。それを踏まえて、事件発覚後に米政権はどう対応したか。それを裏付けのある事実として提示する。それが求められたことであり、春名氏はその答えを出した、といえる。カギは①日中国交回復に踏み切った田中外交を、ニクソン訪中の演出者であったキッシンジャーは好感を持っていなかった②「TANAKA」の名前が入った証拠書類の日本捜査当局への引き渡しに米国務省が関わっていた(このとき国務省トップは補佐官から昇格したキッシンジャーだった)である。キッシンジャーこそ田中逮捕の影の演出者であった(春名氏は「キッシンジャー陰謀説は濃厚」と結論付けている)。
 事件の構図はこれで終わったわけではない。冒頭で指摘した「児玉誉士夫」の存在である。児玉には、田中の5億円を上回る資金が渡ったとみられる。しかし、児玉ルートは早々と幕が引かれた。児玉は戦時中、満州で巨額のカネを手にし、戦後は保守党結成に資金提供したとされる。CIAエージェントであったことも知られている。CIAの巨大な影を前に、日本の捜査当局も手が出せなかったのではないか。ロッキードに続いてダグラス、グラマンの軍用機売込みが疑惑として浮上する中、無傷で生き残ったのが、CIAと関係が深いとされた中曽根康弘であり岸信介であった。
 目前に広がる黒々とした闇に戦後保守政治の暗部、日米安保の暗部を見る思いだ。

【注】春名氏が取り上げた陰謀説は五つ。①誤配説②ニクソンの陰謀③三木の陰謀④資源外交説⑤キッシンジャーの陰謀。このうち⑤以外はすべて否定した。



ロッキード疑獄 角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス (角川書店単行本)

ロッキード疑獄 角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス (角川書店単行本)

  • 作者: 春名 幹男
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2020/10/30
  • メディア: Kindle版



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時間軸でみたヨーロッパ文明論~濫読日記 [濫読日記]

時間軸でみたヨーロッパ文明論~濫読日記


「続ヨーロッパを知る50の映画」(狩野良規著)


 続編に先立つ「ヨーロッパを知る50の映画」はフラットな地理感覚で、いいかえれば地図上の位置で分類し、ヨーロッパ映画を語った。北から始まりスペイン、フランス、ドイツ、ロシアに至り、最後は東欧・地中海。監督でいえばアキ・カウリスマキに始まり、締めはテオ・アンゲロプロスだった。顔ぶれの並べ方がなんとも好みだった。
 続編は一転、歴史的な時間軸による構成。古代、中世に始まり第一次大戦、第二次大戦を経て現代へと向かう。必然として歴史が中心テーマとして語られる。その中でヨーロッパ文明とは何かが軽妙に解き明かされる。
 取り上げたのは、一癖も二癖もある名匠の作ばかり。観ているものも、観ていないものもあり。しかし、どちらも読んで楽しめる。単なる作品紹介ではないからである。既に観たものであれば、読みの深さや角度の違いを楽しめる。観ていなければ、映画を通したヨーロッパ論を楽しめる。
 これは前著から書かれていることだが、ハリウッド映画の気宇壮大、勧善懲悪、予定調和の結末はヨーロッパ映画にはない。「古代」の章で語られるパゾリーニ、フェリーニしかり。「中世」の「裁かるるジャンヌ」(カール・ドライヤー)も、戦場での勇ましいジャンヌ・ダルクは出てこない。
 例外的な作品が「十九世紀」の章のルキノ・ヴィスコンティ「山猫」だが、著者はもちろんスペクタクルに目を奪われてはいない。没落貴族である公爵は神父との対話でこう語る。「どんな新体制も、この美しい風景は変えられまい」。国破れて山河在り、である。地味なシーンの練れたセリフ。
 「革命の曙」の章では、ベルナルド・ベルトルッチの「1900年」。大地主と小作人の家に生まれた二人の男のたどる人生を軸にファシズムの時代を描く。第二次大戦が終わり、階級的対立の中で翻弄されるが、なんと現代(1970年代)に至っても、かつてのようにケンカしながら生きている。蛇足とも思えるシーンが、勧善懲悪や反ファシズム映画へのパターン化を拒んでいる。
 第二次大戦では、アンジェイ・ワイダ「地下水道」。ここでも、監督が結末のシーンにかけた屈折の視線が紹介される。出口にたどり着いたレジスタンスが、鉄格子に阻まれる。あるいは、いったん逃げおおせた中隊長が、後続がいないのを見てマンホールの中に引き返す。ファシストから解放され、今度はスターリンの手が伸びてきたという絶望感。惨めな死を遂げる右翼テロリストを描いた「灰とダイヤモンド」に通じる。
 ジッロ・ポンテコルヴォ「アルジェの戦い」やコスタ・ガブラス「Z」、ジャン・リュック・ゴダール「気狂いピエロ」と続く。幻のフィルムを求めて「監督A」がバルカン半島をさまようアンゲロプロス「ユリシーズの瞳」、フィンランドの貧困を描いたカウリスマキ「過去のない男」もある。
 「ユリシーズの瞳」に、巨大なレーニン像が船に積まれドナウ川を行く印象的なシーンがある。「リアルタイムの激動するヨーロッパ状勢を見事に異化し、さながら戦い敗れた古代神話の英雄を語るがごとく、悠揚迫らぬ風の叙事詩として謳いあげる」と。絶品の批評である。
 国書刊行会、2400円。


続ヨーロッパを知る50の映画

続ヨーロッパを知る50の映画

  • 作者: 狩野 良規
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2014/09/19
  • メディア: 単行本


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