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あの熱い季節はもう蘇らないのか~濫読日記 [濫読日記]

あの熱い季節はもう蘇らないのか~濫読日記


「対論1968」(笠井潔 絓秀実 聞き手 外山恒一)


 世界的な運動だった「1968」は日本でも一定の盛り上がりを見せた。しかし、世界に比べ「果実」が少なく、一面の焼け野原のようだ。なぜこうなったのか。「1968」の渦中にいた二人が、あの時代を振り返った。
 笠井はいいだももをトップとした共労党の活動家、絓は学習院大全共闘のメンバーで「1968年」(2006年、ちくま新書)の著書を持つ。二人は三派全学連や全共闘ノンセクトが入り乱れた中で小セクト、小集団(東大や日大に比べれば)の一員だった。1970年生まれの外山はファシストを自称、若いころは極左思想を持ち、現在は全共闘運動の研究家でもある。
 必ずしもメーンストリームにいなかった人たちが運動を語ることには意味がある。中心点より辺境にいたからこそ全体の流れが見えるというのが世の常だからだ。

 ポイントは三つある。

 一つは、国民的大闘争だった60年安保と「1968」はつながっているか。言い換えれば70年安保闘争は存在したのか。
 この点で笠井、絓とも否定的である。「1968」の起点は前年の10.8にあり、佐世保のエンプラ阻止など激動の7か月を経て、学園闘争が燎原の火のごとく全国に広がった。10.21新宿騒乱があり、この時点までは「いけるかもしれない」という気分があった。忘れてならないのは10.8の前段としてセクト主導による砂川基地拡張反対闘争があったこと。一連の流れは砂川闘争→国会前デモという60年安保の再来を狙ったものだった。
 しかし、10.8はともかく、学園闘争になると自然発生的な群衆(学生)が主役で、大学自治会、労組が運動の受け皿だった60年とは全く違う様相となった。セクトの思惑とは違って60年とは切断された闘争になったのである。その意味で60年の再来はなかったし、70年安保闘争も実体としてはなかった。この点は私も同感する。そのことの象徴として、樺美智子は国民的英雄になれたが山崎博昭はなれなかった。

 二つ目、戦後民主主義をどう見るか。
 「1968」といえば小熊英二の大著がある。高価なので読んでいないが、二人とも小熊史観に異議を唱える。文献主義によって事実を整理しただけで当事者の声、現場感覚からはかけ離れているという。例えば全共闘とべ平連は対立的存在として書かれているが、両者は共闘関係にあったとする(そうだろう)。
 こうした錯誤はなぜ起きたか。60年安保はブントを含めて戦後民主主義の枠内での運動で(吉本隆明がこのことを批判して「擬制の終焉」を書いた)、延長線上に「1968」や全共闘運動を置くと進歩派対暴力学生という構図になる。小熊史観もこうした限界内にあるというのが笠井、絓の見方である。
 そのことは、新左翼が「世界革命戦争」を主張した背景にもかかわる。日本は無条件降伏によってヤルタ・ポツダム体制を受け入れた。戦わずして得た「平和と民主主義」が戦後体制を象徴している。ヨーロッパ各国では、結果はともかく市民がファシズムと軍事的に対決したが、日本の市民はファシズムとも連合軍とも戦わなかった。戦後民主主義に日和見体質を見た新左翼が旧左翼に対抗するため「戦争も辞さず」と叫ばざるを得なかったと、笠井は言う。新左翼が戦後体制を虚妄(吉本の言葉では「擬制」)と呼んだ背景である。

 三つ目、ポスト「1968」が胡散霧消したのはなぜか。
 世界に比べてもその度合いは激しい。そこで常にあげられるのが陰惨な内ゲバと連合赤軍事件である。内ゲバが大衆を闘争から離反させた、とする見方には笠井、?とも同意している。原因にレーニン主義=ボルシェビズムの前衛党主義があるという。前衛で指導する党は一つでなければならない。その結果、他党派は必然的に淘汰される。この究極が内ゲバだったという。
 連合赤軍事件については笠井、絓の見方は少し違っている。笠井は「人民なき人民戦争」と、戦略論として否定するが、絓は「ピンとこなかった」という。「革命戦争」を主張した一派の幹部と党派に距離を置いたノンセクトラジカルの違いであろうか。
 ポスト「1968」の果実は―と問う前に、今の大学構内ではビラさえ撒けないという話には慄然とさせられる。

 「1968」を語るとき、重要なのは「いま」とのかかわりだと思う。「以後」と「これから」という章立てでそのことにも言及しているのだが、見るべきものはなかった。親ブントからポストモダンに転じ「湾岸戦争に反対する文学者声明」に加わった柄谷行人は、明らかに戦後民主主義の枠に収まることを選択した(憲法9条による平和の選択)。それ以外の道はあるのか、ないのか。笠井、絓の両氏にはこの難問を突破してほしかったが…。
 とはいえ、熱い一冊である。
 集英社新書、1000円(税別)。

対論 1968 (集英社新書)


対論 1968 (集英社新書)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2022/12/16
  • メディア: 新書



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世論も加担した「戦争への道」~濫読日記 [濫読日記]

世論も加担した「戦争への道」~濫読日記


「昭和史研究の最前線 大衆・軍部・マスコミ、戦争への道」(筒井清忠編著)


 昭和の時代、日本はどのようにアジア・太平洋戦争への道筋をたどったのか。この、永遠ともいえるテーマをめぐって「最前線」の研究はどのような現状にあるかが、筒井清忠ら13人の研究者によってまとめられた。

 最大の特徴は政財界、軍部の動きだけでなく、メディアと世論が時代の流れにどう影響したかが、一貫した問題意識(視点)として据えられていることだ。次に、時代の変遷を単色ではなく、複数の色合いを丹念に読み解きながら追っている。
 そのことがよく分かるのが「統帥権干犯」をめぐる章である。大元帥である天皇を絶対的な存在に押し上げた厄介な言葉だが、だれが言い始めたかは、はっきりしていない。ロンドン軍縮条約締結をめぐって政府に批判が集中したのが発端だが、軍の編成権はもともと政府にあり、この時の政府の動きはなんら批判に値するものではなかった(天皇も当時、内容を了解したとされる。従って天皇無視という批判も当たらない)。第4章でこの問題を取り上げた畑野勇も、最初に言い出したのは「北一輝・右翼団体・陸軍・政友会・マスコミのいずれか」断定は困難、と書いている。政友会が入っているのは当時の野党第一党であり、政権批判として行った、とするものである。北や政治団体だけでなく、新聞を含めた世論の醸成が統帥権干犯という殺し文句を独り歩きさせた。
 「日中15年戦争」という括り方にも異論を唱えている(第5章、熊本史雄)。「15年」とは満州事変が起きた1931年から終戦の1945年までを指すが、その間は「戦争」一色ではなく、上海事変直後のトラウトマン駐華ドイツ大使の動きに見られるように、停戦を模索してもいたのである。これらをとらえ、満州事変→満洲建国と、その後の日中戦争とは区切って考えるべきだとする。停戦の動きを封じ込めたのは、世論の沸騰であった。

 世論の動向が時代の流れに多大な影響を与えたとする背景には第一次大戦後、つまり戦間期の大正デモクラシーの高揚がある。人権や平等意識が浸透し大衆社会が生まれ、政界や軍部もそれらの動きを無視できなくなった。無産政党の台頭があり、両者の結びつきによる「昭和維新」の動き―血盟団事件、5.15事件、そして2.26事件へと至る。
 2.26事件の思想的背景には、北一輝も含めて、大正デモクラシーの平等主義があることは周知と思われる。大恐慌下、農村の疲弊に対する若手将校の義憤があったとされるが、1936年の時点で日本は不況から脱しており、政党政治の混迷と腐敗に対する将校らの怒りが色濃かったとみるべきであろう。
 将校決起後の天皇に向けた上部工作(宮中工作)が丹念に再現されている(第9章、筒井清忠)。あまり目にしなかった記述だ。事件の背後で石原莞爾が収拾に動いたことは知られており、決起した皇道派将校に対して石原ら統制派という対置がなされるが、統制派自体は実態がなかったようだ。少なくともここではそう読める。

 三国同盟か米英協調かをめぐって揺れた世論を佐藤卓己が解き明かしている(第11章)。判りやすく読みやすい。日本は独伊との三国同盟に単線的に突っ走ったわけではなかった。しかし、メディア議員(メディア出身議員)やメディアが仕掛けたイベントによって世論の大勢はドイツ支持へと雪崩を打ったのである。
 「戦争への道」を振り返るとき、軍や政治がやり玉にあがることが多いが、メディア機関と世論も少なからぬ加担をしていることも、しっかり見ておくべきであろう。
 朝日新聞出版、910円(税別)。



昭和史研究の最前線 大衆・軍部・マスコミ、戦争への道 (朝日新書)

昭和史研究の最前線 大衆・軍部・マスコミ、戦争への道 (朝日新書)

  • 作者: 筒井 清忠
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2022/11/11
  • メディア: Kindle版


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「人をつなぐ」言語を求めて~濫読日記 [濫読日記]

「人をつなぐ」言語を求めて~濫読日記


「夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く」(奈倉有里著)


 著者の奈倉有里は2002年、20歳で単身ロシアに渡った。ロシア文学を学ぶためである。ペテルブルグの語学学校、モスクワ大予備科を経て2008年、日本人として初めてゴーリキー文学大を卒業した。書のタイトルは白夜のペテルブルグ、ほとんど闇となった教室での授業風景と、常に希望を捨てないアレクサンドル・ブロークの詩を重ねた。
 前半は異国の言語、文化と出会うことの楽しさや戸惑いが率直につづられている。そんな中、常に相手の奥深さを知ることの喜びを忘れない姿勢が印象的だ。
 例えばロシア語の入り口に立つきっかけになったある吟遊詩人の詩のこと。
 神よ 人々に 持たざるものを 与えたまえ
 賢い者には 頭を 臆病者には 馬を
 幸せな者には お金を そして私のこともお忘れなく…
 不思議な詩である。賢者に頭脳はいらないだろう、臆病者は見知らぬ土地に足を踏み入れることはないのだから馬はいらない、幸せならもうお金などいらないだろう…。
 普通はそう思う。でもその思考を一度ひっくり返してみてはどうだろう。賢者とは頭がいいことか、本当の臆病者とは、幸福とは何か…。この詩には、表層的な意味を超えたものがある。著者はここに「言葉の森がある」という。

 さまざまな文化や友人たち、酔いどれ教師との濃密な出会いを描く。いずれも、言葉は人と人をつなぐものとの信念に満ちているところが楽しい。しかし、後半に入るとにわかに文章がジャーナリスティック、時事的になる。いうまでもなく、プーチンの大国主義が影を落としている。
 文学大の最終学年のころ、文学史の教授からありえない発言を聞いたという。ウクライナ出身のゴーゴリがロシア語で作品を発表したのは、ロシア語が文学的に優れていたから、と。これに対して著者は、ウクライナ人の母とロシア人の父の間に生まれたミハイル・シーシキンの文章―兄弟であるロシアとウクライナを争わせ、分かつことなど、本来できるはずはない―を挙げる。

 2022年、ロシアによるウクライナ侵攻のニュースが世界を賑わせた。プーチン大統領は思想的背景としてロシア史、ロシア語、ロシア正教を挙げた。この三つはロシア保守思想の根幹をなし、そこに作られた世界を「ルースキーミール(「ロシア世界」)」と呼んだ(「プーチンの世界」フィオナ・ヒルほか著)。侵攻の理由として「ロシア語圏を守る」とするのも、そこからきている。この論理はロシア語圏の一体化を進める、と読めるが、当然ながらウクライナ国民から見れば敵対と排除を意味している。

 終わりが見えないウクライナ戦争。だからこそ、言葉は分断のためではなくつながりのためにある、という著者の思いは重く響く。
 イースト・プレス、1800円、税別。

夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く


夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く

  • 作者: 奈倉有里
  • 出版社/メーカー: イースト・プレス
  • 発売日: 2021/10/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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稀有な旅人の魂を描く~濫読日記 [濫読日記]

有な旅人の魂を描く~濫読日記


「天路の旅人」(沢木耕太郎著)

 中国の最奥地、チベット(西蔵)をアジア・太平洋戦争の最中に放浪した日本人がいた。当初は軍の「密偵」として。戦争が終わっても旅は続き、8年という長さになった。旅程は6000㌔とも。訪れた地は内モンゴルを出発点としてチベット、インド、ネパール。標高40005000㍍のヒマラ峠越えは9回に及んだという(本人は「7回」としたが、沢木は記録を精読した結果「9回」と結論付けた)。
 西川一三。身長は180㌢と、当時としては大柄だった。放浪を終えて帰国後、大部の著書「秘境西域八年の潜行」を出版(当初は単行本、後に文庫化。文庫仕様で約2000㌻。生原稿段階では3000㌻以上あったという)。その後は一時期を除いて化粧品店の店主として暮らした。稀有な体験の中でモンゴル語、チベット語、ネパール語、インド語(ヒンディー語)を学んだが、それらを知識として生かす道を選ばなかった。
 西川は当初、軍の特務機関の任務を帯びて内モンゴルからチベットに向かった。しかし、戦後も放浪をやめなかった胸中には何があったのだろう。帰国後も「旅」へのあこがれは口にしたが、モンゴル・チベット再訪を口にすることはなかった。そのことと、市井の一店主としてひっそりとした日常を送った戦後の人生とはどうつながるのだろうか。
 そしてなにより、分厚い放浪記を残した西川を取材し、その旅をノンフィクションとして書き残すことの意味は何だろう。沢木自身もこの問いを繰り返し自らに問いながら取材と執筆をした。その結果がこの「天路の旅人」である。沢木はこの問いの答えとして「あとがき」にこう書いている。

 ――私が描きたいのは、西川一三の旅そのものではなく、その旅をした西川一三という稀有な旅人なのだ。
 ――私は、この「天路の旅人」が、「秘境西域八年の潜行」という深い森を歩くための磁石のような、あるいは広大な海を航海するための海図のようなものになってくれれば、と願いつつ書き進めていたような気がする。

 「旅」よりも「旅人」を描こうとしていた。

 西川は山口県の生まれ。長男でなかったため家業(農家)は継がず、満鉄に入社した。1941年に退社、興亜義塾という学校に入りなおした。当時の募集広告によれば、蒙古から新彊にかけての地域で国家に挺身する若者を養成する目的で学費は無料。ところが1年半の教育が終わるころ、漢人の若者とのトラブルに巻き込まれ、退塾処分となった。西川は北京経由で内モンゴルに向かい、8年の旅が始まった。ヒマラヤの峠を越え、インド亜大陸を横断し、パキスタンからアフガニスタンへの入国を試みるが、戦後インドやパキスタンが独立したあおりで一帯の治安は極度に悪化。西への旅を断念せざるを得なかった。
 これらは「線」として描かれた旅である。沢木が本当に描きたかったものは、ここではないように思う。

 例えばインドで。死体焼却場の下に洞窟があり、人骨が散乱する中で瞑想する。洞窟の下は絶壁である。はるかにヒマラヤの8000㍍峰カンチェンジュンガが見える。そこでの瞑想で、西川は何を見たのだろうか。
 例えばゴビに連なる砂漠。蛇のような黄河の流れと、かつて隆盛を誇った寧夏城の王たちの半球状の陵墓、地平線に落ちていく巨大な夕日。西川はここに何を見たのか。
 これらには、西川の旅の「行程」ではなく「情景」がある。生と死の世界は分かちがたく、夕日は悠久の時の流れの中で落ちていく。

 1年に及ぶ対話の中で、淡々と答えていた西川が一瞬の執着を見せたシーンが描かれていた。沢木が「深夜特急」での体験を話していたときのこと。「インド、パキスタン、アフガニスタン…」と通過国を挙げていくと「アフガニスタンに行ったんですか」と口をはさみ、どんな国だったか、と聞いてきたという。まだ行ったことのないアフガニスタンに行ってみたい…。そんな西川を見て、沢木は「驚かされた」と書いている。旅を過去のものとして財産にするのではなく、旅人の魂を持ち続ける西川の人生を、沢木は見ている。
 しかし、西川は2008年、89歳で亡くなった。アフガニスタンを見ることはなかった。
 新潮社、2400円(税別)。

天路の旅人天路の旅人


  • 作者: 沢木耕太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2022/10/27
  • メディア: Kindle版


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戦後的言論空間への一石~濫読日記 [濫読日記]

戦後的言論空間への一石~濫読日記


「満洲国グランドホテル」(平山周吉著)


 「真実は細部に宿る」という。今となっては出典を確かめようもないが、ノンフィクション関係の著作で目にした記憶がある。さて、標題の一冊、満洲国のホテルを書いているわけではない。著者の平山があとがきで触れたように、映画などでいうグランドホテル形式を指している。特定の場所を舞台に、複数の人間ドラマを並行して描く。さながら大きなホテルのロビーを行きかう人々の横顔をスケッチするように。ここでは「満洲」という限られた地理的、時間的空間の物語を36景、掲載した。演者は、満洲国自体が軍人と官僚の合作である以上、その方面が多いのは当然として文学者、映画人、マスコミ関係、と多岐にわたる。もちろん、二キ三スケと呼ばれた大立者が、中心をなしている。これらの人物を通して書かれたのは、微細な人間関係の裏表である。

 全体を通しての印象を言えば「満洲」という国が放つ、万華鏡のようなきらめきである。人物によって、あるいは同じ人物でも時の流れの中で屈折度を変え、光の色を変える。「五族協和」や「王道楽土」の理想郷が、時代の流れの中で植民地主義によって絡めとられていく。その過程は一筋縄ではいかない。人によって、時空によって微妙な違いを見せる。

 多士済々が登場する中、1回目を小林秀雄の、36回目を島木健作の二人の文学者の紀行文で組み立てたところに、著者のある種の「思い」を感じる。橋川文三の評を引き「誠実なインテリゲンチアの心に映じた満洲(ないしは日本と満洲の関係)の現実を素材としながら、大陸に進出した日本の自己批評を試みたといったよい文章である」とした。小林の「満洲の印象」は、満洲国の現実を「政治的必然」としながら(いかにも小林らしいが)、後半では酷寒の地に送り込まれた青少年義勇隊の現実に触れ「不覚の涙を浮かべた」という。
 島木はプロレタリア文学作家として活動後に転向。「生活の探求」でベストセラー作家となった。インテリ青年が故郷に帰り、農業に生きる物語である。その意味では徒手空拳の小林が「日本近代の極北」を見たのに比べ、島木の満洲国観はもう少し地に足がついていた。しかし彼は、あえて農民の側から書こうとしたため、国策批判ぎりぎりを行かざるを得なかった。日本人が満洲に入植する。今までいた民はどうなったか。日本人開拓民の小作人になった。そうした矛盾を、書き漏らさなかった。「島木らしい」といえなくもないが、そこには批判と肯定とがあったようだ。

 二キ三スケとは東条英機、星野直樹、鮎川義介、岸信介、松岡洋右のことだが、当然、随所に出てくる。大杉栄虐殺で知られた甘粕正彦も。しかし、板垣征四郎はいるが石原莞爾は主役としては出てこない。意外ではあるが、著者は「あとがき」で「新しい視点で描くのが難しかった」とした。
 「満洲国のゲッペルス」と呼ばれ、満映理事長に甘粕正彦を招いた武藤富雄・総務省広報処長が甘粕に会った時の印象記が面白い。「残忍酷薄」かと思ったら「案外快活」で「インテリ」で「理知的」だったという。大杉虐殺のイメージが独り歩きしたのだろう。世間の思い込みとは恐ろしいものだ。同じことは板垣にもいえる。「石原莞爾」を書いた新聞記者・西郷鋼作(ペンネーム)によれば、陸軍大学は「ビリに近い成績」で「軍人インテリ」とは程遠く「昼行燈型将軍」で、陸大入学は陸士同期の永田鉄山より三期遅れ、一期下の東条英機より一期あとだったという。腹芸の人で、この点が石原の才気とマッチしたらしい。切れ者かと思いきや、分からないものである。

 ソ連抑留生活11年ののち帰還した内村剛介も取り上げられている。全体を見渡した時、内村の存在はかなり異質である。少年時代に満洲にわたり12年、帰国後11年たってソ連抑留生活を思想的に決算した著書「生き急ぐ」の印象が強いためだろう。内村と聞いて頭に浮かぶのは満洲よりソ連抑留なのだ。
 内村は14歳で満鉄育成学校に入学した。学費不要、卒業後は社員に登用された。しかし、ぬるま湯的空気が嫌で中退、大連二中を経て満洲国立大哈爾濱学院に入学した。当時としてはリベラルな気風だったという。卒業後は関東軍参謀部で民情班に配属。ロシア語放送の傍受、翻訳が仕事だった。哈爾濱学院でのロシア語教育と関東軍での仕事が「ロシアへのスパイ活動」とみなされ、長期抑留につながったようだ。
 内村は1983(昭和58)年、「文芸春秋」座談会に出席した。他の顔ぶれは石堂清倫、工藤幸雄、澤地久枝で、いずれも満洲体験を持つ。この中で「満洲は日本の強権的な帝国主義だった」とする石堂の論に反駁する。「きのうは勝者満鉄・関東軍に寄食し、きょうは勝者連合軍にとりついて敗者の日本をたたくというお利口さんぶりを私は見飽きました」。澤地の「日本がよその国に行ってそこに傀儡国家を作ったということだけは否定できない」とする意見にも「否定できますよ。(略)歴史というものには決まった道があるんですか。日本敗戦の事実から逆算して歴史はこうあるべきだという考え、それがあなたの中に初めからあるんじゃないですか」。

 内村は、満洲建国は正しかったといっているわけではない。戦後思想の中で肯定できないものは切って捨てるという「お利口さん」たちの所作を批判している。いわば「戦後的言論空間に潜む数々のタブー」に投じられた一石である。内村の章の基調低音として著者が引くのは吉本隆明の知られた詩「廃人の歌」である。「ぼくが真実を口にすると ほとんど世界を凍らせるだろうという妄想によって ぼくは廃人であるそうだ」
 ここには、今なぜ満洲が語られなければならないかの核心部分が込められているように思う。戦後思想という袋(もしくは枠組み)から零れ落ちた何かを一つ一つ拾い集めてみれば、満洲国が違った光を放つのではないか。おそらくそれは「アジア主義の見果てぬ夢」のかけらと思われるのだが。

 芸術新聞社刊、3500円(税別)。カバー絵は「虹色のトロツキー」の安彦良和。

満洲国グランドホテル


満洲国グランドホテル

  • 作者: 平山周吉
  • 出版社/メーカー: 芸術新聞社
  • 発売日: 2022/04/22
  • メディア: 単行本


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市民が蘇らせた作家~濫読日記 [濫読日記]

市民が蘇らせた作家~濫読日記


「狂伝 佐藤泰志 無垢と修羅」(中澤雄大著)

 芥川賞に五度ノミネートされながら、ついに光の当たる道を歩めず自死した作家の名を知ったのは、川本三郎著「言葉の中に風景が立ち上がる」によってであった。文学作品を通して風景論を模索した一冊。2006年に出版され、比較的早い時期に目にしたと記憶する。
 作家の小説は生前に3冊、死後に3冊が出版されたがいったんすべて絶版になり、2007年に「佐藤泰志作品集」がクレイン社から出された。2009年に出身地函館で、長期連作「海炭市叙景(未完)」の映画化へ向けて実行委が結成され、翌年公開された。この二つの事実が作家としての復活を印象付けた。
 川本は、復活の少し前に佐藤に注目している。なぜだろうか。何が心に引っかかったのか。
 作品はいずれも、行間から風景が立ち上がってくる。映画好きの作家が、映画から多くのものを学んだことがよくわかる。映画評論家でもある川本が、そうした作家の特性にいち早く注目したのは、当然だったのかもしれない。
 だが、このことは必ずしも作家の利点とは受け止められなかった。「コラージュが多い」(554P、佐伯一麦)と辛辣な批評もあった。こうした、既存の作品のシーンを「盗用気味にとりこ」む例は早い時期からあったようだ(127P)。一方で「活字が立っていない」とする短編小説の「名手」の意見もあった(468P、開高健)。
 文壇では不幸にも過小評価され、しかし、函館の市民からはあたたかく迎えられた佐藤泰志とはどんな人物だったか。それを、一人の全国紙記者が退路を断つため社をやめて10年600㌻の大部に仕上げた。 
 何が彼をそうさせたのだろう。佐藤という作家の何にひかれたのか。そうした問いの答えも含めて、読み応えのある一冊である。

◆「東京物語」
 作家になるためには東京で勝負しなければならない。そう考えた佐藤は二度の受験失敗をへて国学院大哲学科に入学した。1970年。安保闘争が急速に退潮していったころである。1967年の羽田闘争に触発され「市街戦のジャズメン」を書いた佐藤はその後、三里塚闘争への連帯感を強めていく。そんな彼の前に現れたのは、静岡から上京して同じキャンパスに通う漆畑喜美子だった。学園を吹き荒れた闘争の衰退とともに「同棲」に小さな幸せを見出す若者が多かったころ。二人は同棲生活に入った。以来、喜美子は原稿用紙に向かう作家の背中を見て生活を支えた。

 悪戦苦闘の佐藤とは全く違うコースで同時期に函館から文壇に出た女性がいた。直木賞作家・藤堂志津子(熊谷政江)である。彼女の佐藤観はとても的を射ているように思える。


 ――私からすれば、描いている世界が狭いのね。読んでいても心配になったわ。こんな風に書いていたら、どんどんどんどん、それこそ鶴が羽を抜いたみたいにわが身を削って織っていくことになって、いずれ駄目になってしまう、という予感をさせたのね(以下略、250P)」

 佐藤が思いを寄せた女性は、冷静に彼の作家としての限界を見ていた。

◆二重掲載と安岡章太郎への電話
 「もう一つの朝」が1980年「作家」賞を受けた。「作家」は名古屋を中心にした商業的同人誌だった。同じタイトルの小説が6年後「文學界」に新人競作の一編として掲載された。編集部に作品の来歴は伝えていなかった。菅野昭正が「ひとまず小ぢんまりとまとまっている」と評した。「作家」を主宰する小谷剛の怒りは、容易に想像できる。酒と薬におぼれ、想像力が干上がった作家の苦し紛れの行為だった。
 痛恨の出来事はもう一つあった。安岡章太郎への偽電話事件である。「オーバー・フェンス」が5回目の芥川賞候補になったとき、佐藤の知人を名乗る人物が佐藤をよろしく、と電話してきたというのだ。安岡は激怒、この回だけでなく以降もノミネートはむつかしくなったという。情報の出所は文春編集者である。電話の主はもちろん本人であろう。佐藤春夫にあてた太宰治の手紙のような話だが、追い詰められた気分がよくわかる。中澤が入手した芥川賞の社内選考資料によると「オーバー・フェンス」は2位の評価だったという。本選考で受賞してもおかしくない位置にいた。

◆死んで花実が咲いた人
 中澤は、作家の「明」の部分だけを書いてはいない。「暗」の部分も、これでもかというほど書き込んでいる。そうしなければ評伝としての価値はない、と信じているからだろう。喜美子ら遺族もまた、こうした筆致を信じて見守っている。佐藤がやりとりした手紙は、未発送分も含め段ボール箱に入れてそっくり提供されたという。よほどの信頼がなければできないことだ。そうした確固とした人間関係だけでないものが、この一冊には込められている。
 それは、「海炭市叙景」をはじめとする作品群が、何かあたたかいもの、希望を絶やすことなく生きることの大切さを読んだものの心にもたらすことを、多くの人が知っているからではないか。菅野昭正が「文藝」の鼎談で語った言葉が、作品の特性をよく表している。

 ――管理社会の中で抑圧された生とか、都市生活の中でアトム化された生活とか、そういう問題を考える立場で書いていると思いました。(略)抒情的な喚起力のある文体で、この文体が全体として、淀みなく、凸凹なしに、均質にうまく貫かれている(略)

 こうした文体を引っ提げて、架空の地方都市を舞台に住民のさまざまな生き様を描き切ろうとしたのが「海炭市叙景」だった。構想の半分で終わったことが、今にして惜しい。

 映画「そこのみにて光輝く」(2014年)の試写を見終わって喜美子はこういったという。

 ――死んじゃあおしまいと言うけど、死んで花実が咲く人もいるんだねぇ。(中澤雄大、「佐藤泰志」=河出書房新社から) 


狂伝 佐藤泰志-無垢と修羅 (単行本)

狂伝 佐藤泰志-無垢と修羅 (単行本)

  • 作者: 中澤 雄大
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2022/04/19
  • メディア: 単行本

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ある歴史家の思想的格闘~濫読日記 [濫読日記]

ある歴史家の思想的格闘~濫読日記


「橋川文三とその浪漫」(杉田俊介著)

◇出会い
 数多い思想家・歴史家のうち、特別の響きを持つ何人かがいる。橋川文三はその一人である。
 出会ったのは、1970年前後の学園闘争が下火になりかけたころと記憶する。未来が見えず、言い知れぬ空洞を抱え、精神の下部へと降りてゆくことに心を砕いていたころ。
 どのようにして橋川に行きついたのか、今となっては判然としない。知人のサジェッションだったか、当時読みふけった吉本隆明、竹内好、鶴見俊輔らの思想的水脈の先にいたのか。その両方だったのか。
 大学を出て就職すると、橋川の名は頭から離れた。しかし、多くの書き込みがある一冊の本はいまだに手放せないでいる。「増補 日本浪漫派批判序説」(以下「序説」)である。確かめると、1968年発行の第4刷だった(初版は65年)。現在、書店で手に入る新装版と違い箱入りである。ほかにも彼の著作の数冊が、手元にある。
 橋川に関して、近年では宮嶋繁明が何冊かの本を書いていることは承知していた。定年をとうに過ぎ、橋川文三著作集(筑摩書房、全8巻)を手に入れて気の向くまま、ゆっくりと読み通したいと思っていた。

◇杉田俊介とは何者?
 そんなとき「橋川文三とその浪漫」を目にした。500㌻近い大部である。杉田俊介という著者名は知らなかった。奥付の経歴を見ると、1975年生まれ。私が橋川に出会い、やがて離れた後にやってきた世代である。多くの著作があるらしい。タイトルに「長渕剛」や「宇多田ヒカル」「ドラえもん」「宮崎駿」の名が入っている。サブカルと呼ばれるフィールドを活動場所にしていると推測された。そんな人が、いまなぜ?という小さな疑問を抱きながらページを開いた。

◇書の構成について
 目次をそのまま書き写す。
  序章  橋川文三にとって歴史意識とは何か
  第一章 保田與重郎と日本的ロマン主義
  第二章 丸山真男と日本ファシズム
  第三章 柳田国男と日本ナショナリズム
  第四章 三島由紀夫と美的革命
 橋川を書くのにこの構成は、多少の引っ掛かり(後述)はあるものの、オーソドックスと思えた。保田與重郎批判を軸にした「序説」は1960年に最初の刊行があり(私が持つのは増補版)、「橋川の最初の単著であり原点にして頂点」(杉田、32P)であることは衆目の一致するところだろう。ここを出発点に、丸山との「微妙に割り切れない」師弟関係(杉田、143P)に触れる。丸山は「序説」を正面から批評しなかったといい、そのことを橋川は「嬉しかった」といっている。傍から見れば、確かによく分からない関係である。
 「序説」はもともと同人誌に連載された。単行本化に当たって、新たに第7章が追加された(杉田、32P)。この第7章「美意識と政治」が、丸山に対する批判の刃になった。以下、杉田の解説。

――端的にいえばそれは、丸山が軽視した美(文学)の問題である。政治的な決断と責任を無限に死産させていく文学=美の問題の中にこそ、日本の厄介な(メタ的な)政治性がある。(144P)

 丸山のファシズム批判の視野に、保田與重郎はほとんどいなかった。杉田の言葉を借りれば「丸山の超国家主義=日本ファシズムの分析には致命的な死角がある」(144P)。しかし戦時中、保田に「いかれた覚え」(杉田、32P)のある橋川は、保田の最も得意とする場所(=急所)を批判することで丸山のファシズム批判を越えようとした。
 橋川は、柳田国男を世界的な思想家として高く評価した。その視線の先に常民=パトリ(愛郷)という「保守主義者の純粋」(杉田、274P)を見ていた。そこにこそ、国民統合のリソースの欠如という近代のアポリアを超えるカギがあるというのだ。
 ナショナリズム(ウルトラ&スーパー)を、美的象徴によってではなくどのように乗り越えるかは、橋川と三島由紀夫の論争につながる。
 二人の関係はよく知られるところだが、秋波を送ったのは三島であり、橋川は冷めていた、とされる。杉田も、こうした関係として橋川と三島を見ている。「敗戦によってこの世の絶対的なものが砕け散り」「すべてが消費されていく戦後の大衆文化」の中で「人間の生の根拠を探す」(杉田、382P)という「戦中派」としての共通感覚を、二人は持っていた。だからこそ、三島は橋川の思想に共鳴し、著作を読み、学習したという。前掲の宮嶋によれば「橋川は(略)本人の意思に反し、まるで、三島の思想的な(政治的ではない)ブレーンのような立場」だった。
 しかし、橋川は「奇妙な非対称性」(杉田、399P)を貫いた。なぜか。
 橋川は、三島の求めに応じて評伝を書いている。そこで「ノーベル賞候補三島由紀夫をではなく、一人の平凡な青年の戦中・戦後史を描くという方法をとった」と述べている(杉田、399P)。別の言葉でいえば「非凡なる凡人」としか考えない、ということである。愚直だが優れた批評精神を持つ知性としての三島(杉田、400401P)に愛着を感じていたのだ。それゆえに、三島の死に当たっての橋川の言葉は次のようなものだった。

――その死が、あの戦争期の自己欺瞞(=自己陶酔)への痛烈なイロニイであってほしいと願わざるを得ない。

 三島の行動を、その仮面性を見抜いているかのような冷めた視線である。

◇なぜ今、橋川なのか
 橋川文三の思想的格闘を、ブルドーザーでさらうように一気に展開した感のある一冊。どうどうめぐりと思われる個所もあり、読破するには忍耐力が必要だ。それでも、かつてこの思想家(歴史家)に大いなる関心を持った身には興味深い内容だった。そのうえで言えば、なぜ今、橋川文三なのか。
 著者もこの点が気になったらしく、冒頭近くでこの問いを立てている。明晰な知性を持つ政治思想史家である橋川は、実はどうしようもない歴史意識の欠落と無感覚に苦しんだ人だったのではないか。こう考えた。そして、橋川の著作を読めば読むほど、歴史意識の欠如を思い知らされた。このままでは、21世紀を展望する歴史観を持てないのではないか―。
 これは「なぜ今」の答えになりえているだろうか。私は少し疑問を感じる、というか答えがすとんと腹に落ちない。

◇竹内好がいないこと
 最後に、気になったことを二つ。橋川が「師」と仰いだのは丸山と竹内好だった。竹内が章立ての中にいないのは少し戸惑いを覚える。「あとがきにかえて」には、後編として竹内、西郷隆盛、北一輝との対決を論じるとあるので期待したい。
 柳田国男との対決の中で「パトリ」に深く言及している。この概念を語るのに谷川雁を避けて通れないと思うが、なぜ欠落しているのだろう。「アジア同時革命の射程」(杉田、481P)を論じるのであれば、なおさらだ。

 などなど、すべてを書ききれないが、ヘビーな一冊である。
 河出書房新社、3900円(税別)。 

橋川文三とその浪曼橋川文三とその浪曼


  • 作者: 杉田俊介
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2022/04/26
  • メディア: 単行本


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問題の根源を共有しよう~濫読日記 [濫読日記]

問題の根源を共有しよう~濫読日記


「ユーゴスラヴィア現代史 新版」(柴宜弘著)

 初版が出たのは、ボスニア和平が成立した1996年だった。今年はユーゴ解体(1991年)から30年に当たる。内戦が終わり、ひとまず落ち着いた各国がどのように歩んだかを入れて版を新しくしたのが本書である。ところが昨年5月、著者は校正作業の中で急逝した。残る作業をかつての教え子が引き継ぎ刊行に至ったという。著者のユーゴ研究の集大成であり、遺言ともいうべき一冊であると、あらためてとどめておきたい。(刊行の経緯は巻末の「新版追記」によった)

 ユーゴスラヴィアとは「南のスラヴ」の意味だが、もともと南スラヴ人がいたわけではない。民族、宗教、言語が入り組む地域を人工的にまとめた国家であり「南のスラヴ」は目指すべき共通のアイデンティティーだった。それだけに「二度生まれ二度死んだ」という歴史には悲劇性が付きまとった。特に第二次世界大戦後に生まれた、いわゆる「チトーのユーゴ」は非同盟を貫く社会主義国家として、極めて実験的な存在だった。それだけに、絶対的な存在を失った後は分裂、解体、凄惨な内戦と地獄の歴史を歩んだ。
 いくつもの民族、宗教、言語がパズルのように入り組んだ地域の現実は、島国に暮らす我々日本人(一時期、道を誤ったが)には理解しがたいところがあり、つい問題の複雑さを通り過ぎてしまいがちだ。そんなとき、最新データを入れ、分かりやすい記述で政情を解き明かした書は、極めて貴重である。もちろん背後に著者の並々ならない力量と情熱があることは言を俟たない。

 ユーゴは「はざまの国」だという。この言葉ほど、ユーゴの本質を表しているものはない。サミュエル・ハンチントンは、冷戦後の世界は7~8の主要文明に分かれるとしたが、ユーゴを形成するバルカン半島にはうち三つの文明の辺境地帯がある。一つはカソリック(西欧)が多数を占めるスロヴェニア、クロアチア。一つは東方正教が多数のセルビア。もう一つはムスリムのボスニア・ヘルツェゴビナである。これらの国々が、経済格差を背景としたナショナリズムの台頭のなかで対立を先鋭化させた。特にチトー亡き後、その傾向は顕著となった。代表例がユーゴの最貧地域といわれたコソヴォ(アルバニア人が多数)であり、ボスニア・ヘルツェゴビナ(ムスリムが多数)であった。これにユーゴの多数派だったセルビアとクロアチアの長年の対立が絡んでいた。荒っぽい言い方をすれば、バルカンをおさめるには強力な中央集権型を主張するセルビア(大セルビア主義、サラエボ事件もこの思想の持ち主が起こした)と西欧型の緩やかな連邦制を説くクロアチアという根深い手法の対立があった。

 こうしてみると、今進行しているロシア・ウクライナ戦争と構造が似ている。東方正教をバックボーンとした大ロシアとカソリック(西欧志向)のウクライナ。ユーゴでは、東方正教のセルビアとカソリック(西欧志向)のクロアチア。ムスリムという3番目の勢力が絡んでいるだけ、ユーゴの方が複雑といえるかもしれない。

 ユーゴの内戦は凄惨だった。では、今後このような戦争が起こらないためにどうすればいいか。著者はこういう。
 ユーゴの紛争にとって民族、宗教は副次的な要素にすぎない。主要因は政治エリートたちが民族や宗教の違いを際立たせ、そのことで第二次大戦期の流血の記憶を煽り立てたからだ。「なぜ、あれほど暴力的だったのか」という疑問に対しては、例えばナチス・ドイツの暴力性を見れば分かるように、ヨーロッパ近代史に共通の問題だ。著者はさらに「日本の近代史にも潜む現象」とも指摘する。おそらく、ウクライナでのロシア軍の振る舞いにも通じるのではないか。
 ユーゴ内戦の凄惨さはユーゴ特有ではなく、私たちにも通じる問題として考えなくてはならない。これが、筆者の最も言いたいことであろう。
 岩波新書、900円(税別)。

ユーゴスラヴィア現代史 新版 (岩波新書 新赤版 1893)


ユーゴスラヴィア現代史 新版 (岩波新書 新赤版 1893)

  • 作者: 柴 宜弘
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2021/08/31
  • メディア: 新書


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戦後ゼロ年生まれが書いた戦後史~濫読日記 [濫読日記]

戦後ゼロ年生まれが書いた戦後史~濫読日記


「ものがたり戦後史 『歴史総合』入門講義」(富田武著)


 著者は1945年生まれ。東大法学部、大学院を経て予備校教師、成蹊大教授などを勤めた。著書に「歴史としての東大闘争―ぼくたちが闘ったわけ」やスターリニズム研究の延長として「シベリア抑留」を著した。当時の学生運動が「反帝反スタ」を掲げたことから、この著作の道筋は理解できる。同時に彼は終戦の年(戦後ゼロ年)の生まれでもある。こうした二つの人生の偶然を足掛かりに、大学最終講義として行ったのが表題の内容である。

 「歴史総合」とあるように、日本の戦後史と世界の歴史を組み合わせた。著者自身も書いているように、世界の近代史は大航海時代と共に始まった。そこにあるのは、米欧の思想的バックボーンである資本主義とキリスト教の世界化の歴史であった。内外の近現代史を語るとき、この限界をどう乗り越えるかが大きな課題となる。日本の戦後史で、占領時代、講和条約、安保闘争、ベトナム戦争などの主要なトピックで米国の存在は触れざるをえない。そんな中で中ソの存在をどのように描くのかは興味深かった。
 日本の敗戦過程で、ソ連はどう動いたか。ヤルタ密約―ソ連参戦を詳しく追った。中国については、共産革命から朝鮮戦争への道筋を詳述した。
 戦後史としての朝鮮戦争を描くとき、例えば「新たな全体主義の台頭」に警鐘を鳴らしたトルーマンドクトリンや、中国革命と朝鮮戦争の関係について詳しく触れたことは、歴史の相貌に立体感をもたらした。
 チリのアジェンデ政権の成立とクーデタによる崩壊のインパクトは、70年代のユーロコミュニズムの動静に大きく影響した。日本共産党が路線をめぐって揺れたのもこの時代であった。1980年代後半から始まったペレストロイカ―ソ連崩壊と冷戦終結、ドイツ統一も適切なスペースで触れられたように思う。

 「おわりに」で著者が書いているように、アフリカ、南アジア、ラテンアメリカが年表程度にしか触れられなかったことが悔やまれる。しかし「百科事典」的なものでなく「グローバル・ヒストリーが書ける時代」(ワールド・ヒストリーでなく)にふさわしいものを、という著者の意図はよく分かる。
 著者は同時代の伴走者として「戦後」をとらえており、ほぼ同じ肌感覚を持つ者として共感する部分は多い。
 ちくま新書、940円(税別)。


ものがたり戦後史 ――「歴史総合」入門講義 (ちくま新書)

ものがたり戦後史 ――「歴史総合」入門講義 (ちくま新書)

  • 作者: 富田 武
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2022/02/09
  • メディア: 新書


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思考を理解するための「六つのペルソナ」~濫読日記 [濫読日記]

思考を理解するための「六つのペルソナ」~濫読日記


「プーチンの世界 『皇帝』になった工作員」(フィオナ・ヒル、クリフォード・G・ガディ著)


 「プーチンの戦争」が止まらない。そもそも、なぜ戦争を始めたのかも明確ではない。安全保障上の理由ともいい、ロシア民族の統一国家を目指すともいう。あるときは軍事戦略家であり、あるときは超保守的な民族主義者である。複数の仮面を持ち、西側世界とは交わることがないように見える世界はどこから来てどこへ向かうのか。その問いの答えの一つともいえるのが「プーチンの世界 『皇帝』になった工作員」である。著者の二人は、米国のリベラル系シンクタンク、ブルッキングス研究所のスタッフである。

 二つの章からなる。第1章は、ソ連崩壊から大統領就任までの足取りと、その間に築いた独自のシステム。その二つから見えるプーチンの特徴的な六つのキャラクターを取り上げた。第2章は、描かれたプーチンの思想的なアウトラインに基づいたケーススタディ。大まかに言えばこうした構成である。
 内容を細かくは取り上げないが、印象に残ったことをいくつか。ロシア史を見る時、我々は近代の帝政時代、革命以後のソ連、ソ連崩壊後のロシアをそれぞれ別の国としてとらえるが、プーチンは三つを串刺しにして「ロシア」とみる。ソ連もまた「ロシア」なのである。では「ロシア」とは何か。ロシア史、ロシア語、ロシア正教の三つからなる共同体を指し、ルースキーミール(ロシア世界、322P)と呼ぶ。そこに国境はない。ロシア語の話者を保護する目的で軍事行動を起こすプーチンの行動の論理が見えてくる。
 ベルリンの壁崩壊時に、プーチンが東独ドレスデンにKGB要員として駐在していたことは知られている。大衆の反乱を目撃し、後々まで心理的脅威となった。そうした体験に立脚して何を求めるか、といえば答えは単純ではない。ソ連時代のイデオロギーには無関心だが、東欧諸国を従えた権威には関心がありそうだ。KGB時代の最大の標的はNATOと米国だった。ソ連崩壊後に権力の頂点に立ったプーチンの標的もまたNATOと米国である。
 本書では、プーチンのキャラクターを「国家主義者」「歴史家」「サバイバリスト」「アウトサイダー」「自由経済主義者」「ケース・オフィサー(工作員)」の六つのペルソナとして紹介する。前半の三つはロシア国民に共通するものとして、後半の三つは個人に属するものとして。
 プーチン自身はロシアの変化を外部から見た。ベルリンの壁からソ連崩壊に至る過程をソ連内部からではなく、東独の人口50万、第三の都市ドレスデンから傍観者として見ていた。そのため、プーチンはゴルバチョフの政策に批判的な立場に立つ。これを「アウトサイダー」の原点とした。「工作者」については、説明の要はないだろう。国内世論へのプロパガンダ、組織内の裏切りに対する容赦ない対応、チェチェンの学校占拠事件にみられる強硬措置。工作者の手法である。
 1999年、大統領になる前年にプーチンはミレニアム・メッセージを発表した。マニフェストである。国家の再建がうたわれた。ソ連崩壊時の屈辱的な体験を踏まえた「大国の復活」が含意である。国家主義者としての顔がある。
 第二次大戦の独ソ戦さ中、レニングラード包囲戦で900日に及ぶ攻防の末、住民150万人が死亡した(多くは餓死)が、プーチンの両親、兄もその中にいた。両親は生きのび兄は亡くなった。「サバイバリスト」としてのペルソナには、そうした体験が含まれる。そのためであろう、プーチンの安全保障システムには必ず戦略的備蓄という概念が含まれる。
 プーチンお気に入りのジョークが紹介されている。人類に愛想をつかした神が、洪水によって全滅させようとした。キリスト教の司祭とイスラム教のイマームは、最期ぐらいはどんちゃん騒ぎをしようと言ったがユダヤ教のラビはこう言ったという。「水中で暮らす術を編み出そう」(393P)―。今のロシアに通じる話である。
 1517世紀、初期のロシア国家は外の世界と限定的な交流を行った。裏付けとなったのがロシア正教会で、西のヨーロッパ人を異端者ととらえた。皇帝は正教会と政治的、精神的な結びつきを持った。

 本書では、プーチンは西側の考え方を「危険なほど」知らないとする(455P)。西側の常識でこう考えるだろう、と想定した思考法をプーチンはとらないというのだ。かつてのロシア正教会がとった限定的交流と西側=異端という思考法が、プーチンの脳内にはあるのだろうか。だとすれば、西側の、ではなくプーチンの論理ではどうなるかを考えて初めてプーチンへの向き合い方が見えてくる。理不尽な侵攻の時点でそこには一片の正義もないが、こうした思考もあながち無駄ではないだろう。
 新潮社、3200円。

プーチンの世界―「皇帝」になった工作員―


プーチンの世界―「皇帝」になった工作員―

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2017/01/27
  • メディア: Kindle版


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