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これが事件の真相…本当に?~映画「アイ、トーニャ」 [映画時評]

これが事件の真相…本当に?~映画「アイ、トーニャ」

 

 1994リレハンメル冬季五輪の選考会で知人を使ってライバルのナンシー・ケリガンを襲撃、負傷させたトーニャ・ハーディングの事件は、センセーショナルに報じられたのを覚えている。91年にトーニャは米国女子選手として初のトリプルアクセルを成功させており、「なぜ?」という疑問符も飛び交った。フィギュアスケートの世界の事件として構図を描けば「なぜ?」なのだが、アメリカ社会を生きる一人の女性という観点ではどう見えるのか。そこを描いたのが「アイ、トーニャ」である。

 トーニャ(マーゴット・ロビー)は貧困の中でフィギュアスケートの才を見出される。しかし、その才能を伸ばすには母親ラヴォナ・ハーディング(アリソン・ジャーニー)と元夫ジェフ・ギルーリー(セヴァスチャン・スタン)の暴力的な振る舞いに耐えなければならなかった…。

 貧困と暴力に囲まれて育ったトーニャは、必然的にフィギュアスケートを生活向上の手段ととらえ、時に暴力的な対応も辞さない人格へと変貌していった。

 つまり、フィギュアスケートの世界でどう育ったかではなく、アメリカ社会の風土、文化の中でどう育ったかという観点でとらえ直せば「トーニャの事件」は別の貌(かお)を見せる…というのが、この映画の狙いである。

 芥川龍之介の「藪の中」や大岡昇平の「事件」を俟(ま)つまでもなく、世上で起きたことの真相は容易に定まるものではない。そうした文脈でいえば、よくできている。半面、その事をいえば、この作品は必然的に一つのジレンマに陥る。

 映画で描かれたほどトーニャの母親は暴力的であったのか。そこに誇張はないのか。ナンシー・ケリガン(ケイトリン・カーヴァー)を襲ったといわれる元夫の知人ショーン(ポール・ウォルター・ハウザー)は誇大妄想狂だったとされるが、襲撃の根拠はその一点で説明できるのか。トーニャの指示や示唆は本当になかったのか…。

 「フェイクニュース」や「ポストトゥルース」といった言葉が飛び交う時代である。これがトーニャの事件の真相、といえば、そのとたん別の「真相」が語られる。そうした危うさを秘めている。もっとも、作った側はそんなことは百も承知かもしれない。トーニャは既に罪を償ったのだから、彼女の側から見た「真相」を映像にしてもいいのでは、という見方も成り立つだろう。そうしたアメリカ社会のしたたかさがうかがえる作品ではある。2017年、アメリカ。 


トーニャ.jpg

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経済全能でない生き方~映画「モリのいる場所」 [映画時評]

経済全能でない生き方~映画「モリのいる場所」

 

 画壇の仙人、超俗の画家と呼ばれた熊谷守一(1880~1977)のある一日を映像化した。守一に山崎努、妻の秀子に樹木希林。このうえないコンビと思えるが、この作品で初共演という。驚きだ。

 1974(昭和49)年、東京。画家としての名声を得た94歳のモリはこの30年間、自宅の庭から出たことがない。雑草と虫たちをながめ、インスピレーションを得て深夜、アトリエにこもる。秀子(76)は毎日、それを見守っている。俗世間からかけ離れた生活だが、なぜか人が集まる。もちろん、背後には世俗的な打算がある。そのことを鬱陶しく思うモリは、文化勲章受章の知らせにも、「いらない」とそっけなく答える。

 庭の生き物たちと交歓するモリの姿に、二つの言葉が浮かんだ。

 

 ――井の中の蛙は、井の外に虚像を持つかぎりは、井の中にあるが、井の外に虚像を持たなければ、井の中にあること自体が、井の外とつながっている。(吉本隆明「日本のナショナリズム」)

 ――酷使されたからだは次第に山の気のなかに溶けだしてゆく。この、山に向かって開かれた「わたし」が実在感を失い、限りなく無になってゆく感覚が「悟りの境地」に似るゆえ、山は古くから修業の場でもあったのだろう。(南木佳士「山行記」)

 

 吉本の言葉は、いささか場違いかもしれないが、この作品で描かれたモリの心境を言い当てている気がする。モリは外界との交流を断つことで永遠と無限の世界(宇宙)との交流、交歓を手に入れた(そのことを示唆するシークエンスもある)。一方、南木の言葉は、自らの登山経験に即してのもので、その点でモリの日常とは違うが、そこを除けば、「自然との交歓」から「悟り」に至る心境、言い換えれば心眼で見えてくるものを見ようとする境地をよく表している。

 1974年という時代設定がさりげなくなされているが、このことの意味は大きい。60年安保闘争と70年安保闘争に挟まれた高度経済成長期を経て、日本が経済大国という幻影に踊らされていたころ、そうした国家の路線=経済全能主義=に無縁な生き方があったことを提示している(考えてみれば60年、70年の闘争で問われたのも、このこと=経済だけが豊かさをもたらすのか=であった)。

 モリの庭=彼にとっては宇宙であった=は時代の流れの中で、思わぬ危機を迎える。向かいにマンションが建つというのだ。そこでモリがとった行動と取らなかった行動とは―。

 2018年、監督は「滝を見にいく」(2014)の沖田修一。思いのほか、内容的に深い。それは山崎努、樹木希林によるところが大きい。言わずもがなだが、タイトルはもちろん、現代日本の状況への反語である。モリのいる場所は、今の日本にあるのか、という。


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この国はどこまで堕ちるのか~社会時評 [社会時評]

この国はどこまで堕ちるのか~社会時評

 

A)サッカーW杯は、フランスの優勝で幕を閉じた。

B)クロアチアが優勝しないかとひそかに願っていたが…。

A)それはなぜ?

B)ユーゴから独立し、長い内戦の時代をくぐり抜けてきた。第2次大戦下ではナチスの傀儡政権ができたり、セルビア人との不幸な紛争もあったりしたが、苦難を乗り越えてきた国だ。ここは優勝してほしかった。

C)世界にはかつての苦しい時代を乗り切って国際社会に平和をアピールする国もあれば、そうでない国もある…。

A)日本のことだね。

C)そうだ。この国はいったいどこまで堕ちるのだろうか。最近の政治情勢を見るとそう思う。

 

豪雨警戒横目に宴会騒ぎ

B)7月5日夜、「赤坂自民亭」なる飲み会が衆院議員宿舎で開かれ、岸田文雄政調会長ら自民党幹部のほか安倍晋三首相も出席した。西村康稔官房副長官がその写真をツイッターに投稿してはしゃいでいた。その日の午後には気象庁が異例の会見を開き、豪雨被害の警戒を呼び掛けていたので、緊張感のなさに批判が集中した。

C)既に5日時点で京都の鴨川は氾濫寸前だったし、中国地方でも豪雨被害が出始めていた。政府・自民と庶民の感覚はあまりにかけ離れている。

A)飲み会は偶然のタイミングで開かれたもので、批判は感情論だとする向きもあるが、そうは思えない。やはり、国会議員の感覚が庶民とずれている。

B)石破茂元自民幹事長が防災省の設置を訴えているが、検討に値する。世界中で日本ほどあらゆる災害に見舞われている国も珍しい。一方で、今回の場合もそうだが、事前の避難措置が気象庁に任せきりの感がある。国・自治体・自衛隊・消防・警察が早くから連携する方法を模索したほうがいいように思う。

 

死刑執行を命令した人たちも

A)6日にはオウム真理教の松本智津夫ら7人の死刑も執行された。刑執行の命令者である上川陽子法相も飲み会に出席していた。

C)7人の死刑執行を命令したのは安倍首相と上川法相のラインだろうが、彼らが前日の飲み会に出席していたというのは、感覚的に信じられない。

B)極悪非道の狂信者をこの世から消したということでなく、オウム事件とは何だったか、国家の名において7人の命を奪うとはどういうことか、そうした重みを自らの肩に感じているというふうにはみえない。オウム事件はたまたま起きたのではなく、社会の病理というものがあったように思う。1995年は阪神淡路大震災があった年でもあり、同時に東西冷戦が終わり、バブルがはじけた直後でもあった。「失われた20年」の起点とする説もある。戦後の転換期として複雑な社会の断層を抱えた年でもあった。そうしたことを踏まえながら、刑を執行することの重みを感じるべきだった。ハンコひとつでおわり、という話ではない。

A)今、世界の先進国で死刑制度が実際に運用されているのは日本と米国ぐらいだ。特に、日本では絞首という手段がいまだに用いられている。このことにも批判が強い。

 

倉敷・真備町の避難所では

A)11日には、町内の3分の2が洪水被害に見舞われた倉敷市真備町の避難所を安倍首相が訪れた。訪問前夜に突然スポットクーラー18台が現地に送られ、うち12台が首相視察の避難所に設置されたという。こうして首相は冷房のきいた避難所で被災者に形式的な慰めの言葉をかけた。そのシーンをメディアが流した。

B)首相が視察しなかった避難所は割を食った可能性がある。庶民の感覚を知らぬ首相と権力者の意向を忖度する周辺の官僚たち、彼らの注文通りの「絵」を流すメディアの構図はここでも健在だ。

 

安倍三選は既定事実?

C)これだけの豪雨被害がありながら国会で審議しているのはカジノ法案と選挙制度改革。

B)参院の選挙制度改革はひどい。選挙区格差解消ができないから比例区の定員を増やし、そこで合区で落ちた議員を救済しようという。救済される議員を決めるのは有権者でなく、自民党だ。

A)カジノ法案も、まったく必然性がない。

C〉大洲市のダム放流で住民が水死した件、国交省が第三者委員会による調査を表明したが、まずは国会で集中審議をすべきではないのか。先ほども話が出たが、ほかの事例も含めて災害時の国と自治体の連携を見直す必要がありそうだ。

B)自民党からは、民主党政権時代の「コンクリートから人へ」というスローガンが間違っていたとの批判が出ているそうだ。今回の豪雨被害の核心はそこではない。地球温暖化によって異常気象が深刻化している点にある。

C)かつて、治山治水対策は「100年に一度の異常気象にも耐える」ということを合言葉にしていた。ところが、ここ数年を見ても、100年に一度のはずの異常気象がほぼ毎年起きている。そうなると、治山治水対策のハードルを上げないといけない。一方で、日本で毎年起きているこの不都合な真実のデータをできるだけ早く国際社会に突き付けること。とても政権与党は、飲み会などやっている暇はないはずだ。

B)新しい治山治水対策を全国的に展開する。そうすれば、カジノなど作らなくても成長戦略はできる。

 

緩み切った政府与党、その背景は

A)でも、今の緩み切った安倍政権ではもう無理だろう。それでも今秋に三選となれば、庶民は絶望するしかない。

B)7月16日付朝日に、世論調査結果が載っている。カジノ法案は「必要ない」が76%、参院選改革案は「反対」が56%。しかし、内閣支持率は38%。不支持が43%あるにしても、支持率が異常に高い。個別の政策への世論の「反対」をみると、とっくに倒れていてもおかしくない政権だ。

C)内閣支持率の高さは、結局誰がやっても…という政治的アパシー、言い換えれば大衆的ニヒリズムの結果だ。それにやはり、小選挙区制が大きい。野党がバラバラではだめで、ここは歯を食いしばって大同団結し、いったんは離れた無党派層を回帰させるしかない。そうしないといつまでも自民党の腐敗政権が続く。

A)あるいは小選挙区制を変えるかだが、これは自民党が乗るわけもなく、可能性はゼロに近い。

B)結局、日本の政治の堕落はいつまで続く…。



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いま、シリアに何ができるか~映画「ラッカは静かに虐殺されている」 [映画時評]

いま、シリアに何ができるか~

映画「ラッカは静かに虐殺されている」

 

 シリアの美しい都市ラッカ。IS(イスラム国)が2014年に支配下に置き、「首都」と位置付けて外部との交信を絶つに至り、そこで何が行われたか、世界に知られることはなかった。イスラム教の理想の地が出現したかのようなプロパガンダ映像が一方的に流される。立ち上がったのが現地市民を中心にした「ラッカは静かに虐殺されている」(“RBSS”= Raqqa is Being Slaughtered Silently)だった―。

 彼らの活動ぶりをドキュメンタリー映画にまとめたのが「ラッカは静かに虐殺されている」である。

 RBSSのメンバーは市民記者として、スマホを武器にSNSにラッカの画像を流し続ける。そこで行われたのは究極の恐怖政治だった。斬首された遺体。苦悩する市民。その画像がマスメディアの注目を浴び、世界に拡散する。これに対してISはRBSSに対して処刑宣告をする。暗殺の手を逃れるため、RBSSのメンバーの大半は国外に出るしかなかった。ドイツなどを中心にした国外拠点と国内メンバーとの緊迫のやり取り。

 一歩間違えば確実に死がある。そうした現場で、伝えられる事実。支えるのは、かつて普通の数学教師だった人物、不良学生だった若者…。何が彼らをこれほど駆り立てたのか。

 一つの答えは、「そこにジャーナリズムが生きているから」かもしれない。が、ことはそれほど簡単でもなさそうだ。715日、広島での上映後にシリア情勢について解説したアジアプレスの玉本英子さん(2015年にRBSSメンバーにインタビューした)によれば、ラッカは2018年現在、ISの支配下にはないがクルド系組織の支配下にあるという(細かく言えば、YPGSDFの支配下にある)。そのことにラッカ市民の抵抗感は根強く、RBSSには自由シリア軍へのシンパシーを感じる人が多いという。今も内戦下にあるシリアでは結局どこかの勢力と結びつかざるを得ない、ともいえる。そうした現地メディアの限界を考えた時、日本をはじめ国外のジャーナリストに何ができるか。玉本さんはそう問いかけた。

 監督はメキシコ麻薬戦争を追った「カルテル・ランド」のマシュー・ハイネマン。2017年、アメリカ。

 

YPG=クルド人民防衛隊

SDF=シリア民主軍

 

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光州事件の真実はいまだ闇の中~映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」 [映画時評]

光州事件の真実はいまだ闇の中~

映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」

 

 19791026日夜、朴正熙大統領が側近に暗殺され、18年に及ぶ軍事独裁政権が幕を閉じた。韓国内で民主化への期待が膨らむ一方、軍部の主導権争いも激化した。大統領暗殺から半年後の5月に起きたのが、光州事件である。このころ、韓国では学生を中心に民主化要求闘争が多発していた。光州も例外ではなく、軍部が投入した空挺部隊(北朝鮮との非正規戦を想定した部隊)が学生を暴力的に鎮圧した。無法ぶりに市民が立ち上がり、軍の武器庫を襲撃して武装、全羅南道の道庁を制圧したのが光州事件だとされる。

 韓国軍は周辺地域も含め約2万人を動員、圧倒的な兵力で約1時間交戦、鎮圧した。この作戦は米軍も承認したとされる。2001年までに韓国政府が確認した死者は民間人168人、軍人33人、警察官4人、行方不明者436人とされる(この項、文京洙著「韓国現代史」による)。

 背景には朴大統領暗殺を契機とする韓国の権力構造の不安定化がある。一方で民主化勢力の先頭には金大中氏がおり、彼の出身地が全羅南道であったことも、軍部を実質的に掌握していた全斗煥らへの反発を光州に呼び起こしたと指摘されている。光州事件後、全斗煥大統領になり、事件の真相は闇に葬られた。金大中は死刑判決を受けた(後に減刑、1997年に大統領)。民主化へ向かう過程で払った代償は大きかった。

 この光州事件を描いたのが「タクシー運転手 約束は海を越えて」である。日本にいたドイツ人ジャーナリスト、ユルゲン・ヒンツペーター(ピーター、トーマス・クレッチマン)は韓国・光州で不穏な事態が起きていると知り、潜入を試みる。交通はすべて遮断されており、ソウル空港で見つけたタクシーの運転手に頼み込む。その運転手がキム・マンソプ(ソン・ガンホ)で、二人は光州事件の目撃者としてその後、運命を共にする。

 ピーターは、光州の街頭で起きた軍による市民の弾圧を動画に収め、マンソプとともにソウルへ戻ろうとするが、そのためには軍の包囲網を突破しなければならない…。

 後は韓国映画らしいドラマチックな仕立てで、追いつ追われつの連続である。最終的にピーターが日本に持ち帰ったフィルム映像は世界に発信され、光州事件が明らかになる。

 しかし、事件はいまだに全容が明らかになったとはいいがたい。記憶によれば、ここまで事件を正面から扱った映画はなかった。そういう意味では意義深いのだが、同時に問題点もある。

 一つは、事件を世界に発信したジャーナリストの存在は、それだけで一つの作品になりうる素材としての重みを持つ。光州事件とは何だったのか、日本国内も含めていまだに広く知られてはいないからだ。そういう意味では、アクション仕立てでなくシリアスなドラマにした方が訴求力はあった。二つ目に、ジャーナリストを助けたタクシー運転手の存在が、いまだに確かめられていないことの不思議さである。ヒンツペーターの回顧録によると運転手の実名は金砂福。ネット上では、北朝鮮系組織の工作員だったとする説もささやかれている。裏付けを持たないので否定も肯定もできないが、この説の行方は光州事件の本質に関わる。つまり、光州事件の真実はいまだに闇の部分が多い。事件を取り上げることで、そのことを陰画のように指し示したのが、この映画だともいえる。2017年、韓国。
 


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孤独・不条理・ストレスの心象風景~映画「ザ・スクエア 思いやりの聖域」 [映画時評]

孤独・不条理・ストレスの心象風景~

映画「ザ・スクエア 思いやりの聖域」

 

 孤独で、どこか傲慢な、これはなんだろう。不条理とストレスに囲まれた現代人の心象風景、とでもいうべきか。

 クリスティアン(クレス・バング)はストックホルムのある美術館でチーフ・キュレーターをしている。キュレーターは日本語に訳せば学芸員だが、日本でいう学芸員より企画者の色彩が強い。ここでは、ある企画展の責任者を務めている。その企画展とは―。美術館の広場に四角いスペース(スクエア)を設け、そこでは信義と思いやりが何より優先し、すべてのものが平等と公平に扱われる権利と義務を有するという。むろん、信義も思いやりも平等も公平もない社会へのアンチテーゼであり、強烈な批判メッセージとなるはずであった。しかし…

 展覧会の宣伝のため、広告会社の担当者が考えたのは、スクエアの理念を逆転させたアイデアだった。物乞いをする金髪の少女が不安そうにスクエアの中に立つ。爆発が起き、少女は傷つく。そうした危なっかしい動画がYou Tubeにアップされ、瞬く間に再生30万回に達する。同時に、動画は激しい賛否にさらされる。ところが、クリスティアンは、あるトラブルを抱え、この動画をチェックしていなかった。トラブルとは…。

 ある朝、勤務先へと急ぐクリスティアンに女性が助けを求めた。男に追われているという。そこへ血相を変えた男が飛び込んでくる。やっとの思いで男を阻むと、男は「俺はただ走っていただけ」といって去っていく。事情が分からないクリスティアンは、スマホと財布がなくなったことに気づく。ドタバタを仕掛けられ、すられたらしい。

 スマホのGPSで場所を確かめると、貧しい地区のあるアパートにあるらしいことが分かった。部下の入れ知恵で、あるコンビニを返却場所に指定して「返してほしい」と書いた手紙を、該当するアパートの全戸に入れた。多少の脅し文句をつけて。結局、スマホと財布は返ってきたが、濡れ衣を着せられたというある少年の執拗な抗議を受けることになる。

 美術館がアップした動画は世間の激しいバッシングを受け、クリスティアンはキュレーター辞任を決意する。そのための会見を開くが、これもすんなりとは終わらなかった。「チェックが足りなかった」といえば「事前検閲では」と記者から反論があり、「内容が問題だった」という釈明には「表現の自由に限界性を認めるのか」との批判が出た。そんな中で翌日の新聞は、この会見と企画展を大きく取り上げた。結果的に宣伝効果は満点で、広告会社の担当者の思惑通りに事は運んだ。

 こうした話を幹としつつ、美術館の出資者らを対象としたレセプションでの奇妙なパフォーマンス、クリスティアンとインタビュアーとの愛のないセックス、別れた妻の子との葛藤が絡まり、冒頭にあるような「ストレスフルな現代人の心象風景」が展開される。レセプションでのパフォーマンスとは、ある男によって「野生」が際限なく演じられ、ちょっと気取った上流の人々を震撼させるというもので、現代人の心に宿る得体の知れない不安感を影絵のように浮かび上がらせる。

 2017年、スウェーデン・ドイツ・フランス・デンマーク合作。監督はスウェーデンのリューベン・オストルンド。カンヌ国際映画祭パルムドールを2017年受賞。

 

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「永続敗戦」を近代史に位置づけ~濫読日記 [濫読日記]

「永続敗戦」を近代史に位置づけ~濫読日記

 

「国体論 菊と星条旗」(白井聡著)

 

政治の崩壊と大衆のニヒリズム

 昨今の政治を見て思うことが二つある。それは、「異様」といってもいい状況のことである。

 一つは、あまりにもバカげた言説が国会を中心にまかり通ること。そして、そのことに世論がほとんど無反応であること。

 例えば、愛媛県の報告書で、加計学園理事長が20152月に安倍晋三首相と面会、獣医学部新設構想を説明したところ、首相が「いいね」と答えたとされたが、加計学園側が事実ではないと否定、学園側による作り話だったとしたことなど代表例である。事務方の「思いつき」ででっちあげられたことになっているが、まともに信じる向きがいるとも思えない。加計学園のトップと一国の首相が会ったというフィクションを事務方が口から出まかせにしゃべり、しかも首相のセリフまででっちあげたということがありうるだろうか。メディアの世論調査では「納得がいかない」とする声が7~8割を占めている。当然だろう。

 こんな身内びいきを恥も外聞もなく行う安倍政権は即刻退場を、と世論が思っているかというとそうでもなく、内閣支持率は悪くて3割台の後半、調査によっては4割台の前半である。

 これはいったい、何を意味しているか。

 政治の舞台で繰り広げられる三文芝居に国民は飽き飽きしている、言い換えれば、政治に期待するものは何もない、そういっているのではないか。期待しない分、不支持にも回らない。今の政治・政権は否定するにも値しない。そういっている気がする。大衆の心に宿るのは、究極のニヒリズムである。

 

 対米盲従の異様さ

 もう一つは、現政権の米国盲従路線の異様さである。それは、昨年後半に頂点に達したトランプ米政権の軍事路線傾斜に対して、安倍政権が「100%支持する」と言明したことに象徴される。朝鮮半島有事の際、日本は米国と運命を共にするといったに等しい。なぜそこまで、日本は米国に身も心も捧げなければならないのか。

米国盲従は、原発政策にも表れている。2011年の福島原発事故は日本の国土に修復不能な被害を与えた。事故を契機に日本のエネルギー政策は180度変わるべきであったが、そうはならなかった。3月に経産省がまとめたエネルギー基本計画でも、2030年の電源構成は原発が2022%を占める。これは2011年以前より微減という水準で、ドラスティックな転換というに値しない。少なくとも「脱原発」は選択肢から外された。ここまで原発に縛られている背景には、今夏改定予定の日米原子力協定がある。つまり、米国の意向だ。

長めに今日の政治状況を展開したが、それは白井聡の「永続敗戦論」(太田出版、2013年)の状況認識がピタリとはまると思うからだ。日本の保守勢力は、アジア・太平洋戦争での敗戦を否認(憲法を押し付けとして拒否することもその一つ)することで、敗戦の恒久化を図っている。それは対米従属の永続化につながり、現下の政治の空洞化につながっている。これが「永続敗戦論」の認識だったと理解する。

 

 保守の思想に切り込む

 白井の新著「国体論」も、大枠では「永続敗戦論」と基本的には変わるところがない。新たに付け加えられたのは、平成の終わりに際しての天皇の「言葉」、明治維新から150年という近代史の里程標(メルクマール)という二つの要素である。特に明治150年という里程標は、昭和20年8月15日が時間スケールのほぼ真ん中にあることから(それだけではないが)、「敗戦」を区切りとして前半、後半に分けるという作業が行われ、そこに「永続敗戦論」でも言及があった「国体」概念を基軸に据えながら近代史そのものを再編しなおす、という作業と論考が行われた。

 したがって、「国体論」自体は新たな知見が盛り込まれた、というものではない。戦後体制を、天皇を媒介としたワシントン=国体とする見方も、「永続敗戦論」で言及された。「永続敗戦論」で見せたひらめきを、近代史論の中で全面展開させた、と読むのが正しいように思う。したがって、明治150年を契機としてさまざまに書かれている近代史論の1バージョンと読むのがいいのではないか。

 そんな中で、印象を思いつくまま書けば、北一輝の国体論の位置づけ、三島由紀夫事件の意味、GHQ主権論への言及などが丹念な仕事であったように思う。中島岳志によるアジア主義、超国家主義の見直し作業が近年行われているが、保守の思想に切り込んだ白井のこの仕事もまた、同様の評価が与えられてしかるべきと思う。

 集英社新書、940円。


国体論 菊と星条旗 (集英社新書)

国体論 菊と星条旗 (集英社新書)

  • 作者: 白井 聡
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2018/04/17
  • メディア: 新書

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